鬼太鼓座

その話は世阿弥が佐渡に流された史実から始まった。東京三田の渋沢敬三邸で向かい合うのは宮本常一と田耕(でんたがやす)。この3人の紹介は別にする。佐渡に古くから伝わる鬼太鼓(おんでこ)と呼ばれる和太鼓芸能の話に田は飛びつき、佐渡に出向く。歩く民俗学者で、そそのかしの名人といわれる宮本の真骨頂だ。
 1969年、鬼太鼓座が誕生した。太鼓好きの若者が佐渡に集った。廃屋での合宿である。佐渡の山野を走り抜き、その後に太鼓を打ち鳴らす日々。鬼太鼓座の走楽論は、走ることで贅肉を削ぎ落とし、心身を純化させて、太鼓、笛、尺八など和楽器を習得すべき精神と肉体をつくる、という田の哲学。田の非凡なところはそのプロデュース能力。旗揚げ公演は74年、ボストンでやることに決めた。ボストンマラソンの開催日に合わせたのだ。鬼太鼓座の若者は42.195キロを完走した後に、屋台に駆け上がり、締め込み姿で、3尺はある大太鼓に立ち向かった。大地をとどろかす大太鼓、微かに心にしみてくる小さな桴(ばち)音。観衆は驚き、歓呼の声と拍手はやまず、マスコミは大きく報じた。また、当時ボストン交響楽団の常任指揮を務めていた小沢征爾が競演をやろうと誘ってくれた。君たちは譜面を読めないだろうから、こちらで合わせてやるから、と。この時のメンバーに林英哲もいた。和太鼓が舞台芸能となり、世界に羽ばたく、きっかけを作ったのである。
 久しぶりに太鼓を叩いてみた。12月16日、松任市にある浅野太鼓の資料館。誰もいないのを幸いに上着を脱ぎ捨て、桴(ばち)をふるった。リズム感のない自分にも、体の奥底から原始のリズムが湧き出てくるのである。自らのDNAを太鼓の音がさかのぼる。弥生、縄文を過ぎ、まるで初めて人類が出現したアフリカに還ったような感じであった。太鼓のもつ力であり、そこが大きな魅力。ここの浅野昭利専務が、あのボストン旗揚げに太鼓調律師として同行していたのだ。話が弾み、まるで自分がアメリカを駆け巡っている気がした。鬼太鼓座に太鼓を供給し続けたのが先代。スポンサーになってくれたのがサントリーの佐治敬三だったとか。先代の心意気が、和太鼓ブームに乗り、太鼓生産日本一につながった。専務は女性奏者だけの“炎太鼓”を主宰し、雑誌“たいころじー”を発行する。山本寛斎からも声がかかり、スーパーショー『アボルダージュ~接舷攻撃』のクライマックスに、太鼓奏者30人を率いて駆けつけた。もちろん合宿稽古はここの練習場で行った。推奨するのはソロ奏者・今福優。鬼太鼓座で大太鼓に魅せられ、生涯太鼓と向き合う覚悟の男だ。打ち込みの見事さを見てほしい。正確な打点、直線的に革面に食い込む鋭い桴の運び、均衡の取れた打点、これらが一体となり、一打一打が表革から裏革へとまっすぐに抜ける凄まじさがある、という。
 さて、その鬼太鼓座も79年に、田の手法を巡り、林英哲はじめ座員が反発、別に鼓童を結成して離れる。傷心の田は佐渡を去り、長野、静岡に拠点を移す。鬼太鼓座のHPには、鼓童とは関係がありませんと記されている。田耕だが、本名は田尻耕三。昭和27年、血のメーデー事件で早稲田大学を放校処分され、港湾荷役の仕事で全国を放浪していた。たまたま本屋で見つけた宮本の「海をひらいた人々」を読み、すぐに宮本を訪ねたのである。田も既に亡くなっている。人生茫々だが、そうだからといってひるむことはない。どれだけ多くの若者が、鬼太鼓座の門をたたき、救われ、巣立っていったことか。今も多くの若者がそれぞれ伝道師のように、全国各地で、走り、桴を握っている。一粒の麦死なずば、だ。
 年の瀬も押し詰まってきた。26日は恒例の餅つきである、晴れればいいが。杵も桴に似ている、浅野専務にもらった林英哲のCD「若冲の翼」をバックに流して振るってみるか。打点を正確に、リズミカルに、祈りを込めて。楽しみである。

参照 「旅する巨人」佐野真一著 文藝春秋社刊。
   「鬼太鼓座、アメリカを走る」井上良平著 青弓社刊。
    雑誌「たいころじー」?25。

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