04年に亡くなった作家・水上勉の名で17年3月に出版された。副題が「わが原発撰抄」となっていて、「水上さんが存命なら日本のこの状況を何と書くでしょう」と詩人の正津勉がまとめ、初めて聞く版元アーツアンドクラフツ社から出している。水上は原発銀座と呼ばれる福井県おおい町出身で、ふるさとに次々と建設される原発を、複雑な思いで作品を書きとめていた。編集者でもあった正津が、なぜ反対しないのかと聞いたら、苦虫をかみつぶしたような表情で語らなかった。弟が原発で働いていたので慮ったのかと推測したが、86年のチェルノブイリ事故で変わった。原発を訪ね、小浜市・明通寺の住職のもとで勉強するなどして頻繁に取り上げ、とりわけ敦賀の高速増殖炉に「もんじゅ」と命名したことに激しく憤ったという。
水上が言いよどんだ背後には、貧困というよりも極貧の「おらが在所」がある。生家があった場所は乞食谷(こじきだん)と呼ばれた地。家は分家で貧しく、胸まで泥に沈む、沼のような「汁田」で親は働かなくてはならなかった。5人兄弟の次男であった水上は9歳の時に、口減らしのために京都の寺に小僧に出される。そこの住職は妻帯し、贅沢三昧の生活で、その落差は直木賞の「雁の寺」で描くが住職の殺害につながるストーリー。あまりの厳しさに出奔したこともあるが、僧名を得ても長くは続かなかった。行商などをしながら37年に立命館大国文学科に入学するも、同年に満州にある国際運輸社の社員となって奉天に渡っている。そこで結核を患い、若狭に戻る。この時期に文学書を読み漁り、作家としての素養を身に付けたのだろう。
原発撰抄のひとつ、「夏に入る若狭」で大飯原発3号、4号炉の建設時を描いている。建設要員5000人がひしめき、海水浴客が関西から押し寄せる。古老たちはささやく。「こんな景気も、5年が去れば、また元の木阿弥だいね。企業はやってくる時は勇ましいけど、出てゆく時は淋しんもんだでね」。戦前に織物会社がやってきて軍需帆布を作り、また飛行機用のニッケル、マンガンを取るのだとにわか仕立ての鉱業会社が朝鮮人や他郷からきた労働者を使い、山を削り、千年の樹を伐って、赤土を七尾に運んだ。荒れた人工山が今日も残されている。性懲りもなく、くりかえされるこの地むしりの営為により、戦争や、飢餓や、増産やが、風のように去っていったか。原発もまた、そのように、「諸行無常」のうたい文句に収まってくれて、平穏な土地をのこし、去ってくれるだろうか。
ここにもあるように、原発は諸行無常を超える存在なのだ。それでも受け入れざるを得なかった地の悲しみは手に余るものだったに違いない。手厳しい手紙に老作家は深く落ち込んでもいる。幸いにして3.11を知ることなく世を去ったが、更にどう変わっただろうかと思う。
そんなところに酒井順子の「裏が、幸せ」(小学館文庫)がひょいと目に入った。水上勉を不幸を利用した作家として取り挙げている。還俗したあとは職が安定せず転々として、長女は結婚に破れ、次女は重い障害を持って生まれ、結婚前に別の女性との間に生まれた長男・窪島誠一郎は養子に出さざるを得なかった。不幸のデパートと自称していたが不幸にうなだれなかった。40歳過ぎての遅咲きだったが次々とベストセラーが続き、長者番付に名前が乗るほどの売れっ子となっていった。瀬戸内寂聴は「あの人。ちょっと芝居がかったところがあるのよね」「あの人、ハンサムでしょう。前髪をはらりと額に垂らして、小僧さん時代の話なんかすると、それはモテるわけですよ」と、不幸ぶりっ子と評するがいい当てている。
10数年前に、おおい町にある若州一滴文庫を訪ねたことがある。斎藤真一の「瞽女」の絵が飾られ、なぜかその中の赤が記憶にこびりついている。