光州の記憶

富山湾沿いの入善町に吉原という地区がある。そこの恵比寿祭りは、「吉原木遣り」を唄い、本物に近い船神輿を担ぎ、ねり歩く勇壮なものだ。日本海の荒波の中を漕ぎ出していく心意気を謳っている。神輿の重さで、担ぎ手の肩は擦りむけるほどで、「ヨイヨイヨイヤサ、アンコデヨイトナ」の掛け声がいい。昭和の初期に、この地域の人々が朝鮮・光州に多く移住している。
 9月の末日に、入善町の旅館かしはら館を訪ねた。昨年12月に父を亡くした時、当主である柏原常三さんの安否を真っ先に尋ねたのだが、「あれー、うちのも11月に亡くなったがいぜ」と返ってきた。これで光州の記憶が消えていくのか、との思いに駆られた。それぞれの享年は父97歳、常三さん93歳である。時間は十二分にあったのに、何たる怠惰。今掬い取らねばと、88歳の常三夫人を訪ねたのである。夫人が光州に渡ったのは、14歳の時で、昭和8年。朝鮮侵略が仕上げに差し掛かった頃だ。
 姉が光州に嫁いでいたので、それほどの不安は無かった。ほとんど日本と変わらない生活で、言葉は日本語ですし、住まいも日本家屋で、そうそうあの小さな町に、畳屋が3軒もありました。同じ吉原出身ということで、農業試験場に務める常三と結婚したのです。生活はゆったりとしたもので、夕食後家族連れ立って、映画をよく見にいったものです。果物が豊富でおいしかった。近所付き合いも、親戚同然でした。公務員であれば、日本の俸給の6割増しに加えて、住居においても植民地ゆえの特典が想像される。「常三も認知が進んでいて、ケアマネが住所は?」と質問した時に、「弓町」と答えたのには驚きました。光州の住所です。この人の頭の中には、朝鮮の思い出が大きく占めていたのです。引き揚げて来てからは、塩田での塩の採取、アイスキャンディ屋、駄菓子屋、古着販売といろいろやりましたが、日銭が入って安定的な旅館業にようやく落ちついたのです。公務員の延長で、県庁勤務もあったのですが、通勤費を払えば残らない給与の安さで断りました。
 そして、わが記憶だ。初めての家族旅行は、小学校に入る前だから昭和25年であろうか。新湊から入善へ親子3人で出かけている。父のお古のオーバーを仕立て直しで着ていた。列車内で検札にあったら、小学生ではないとはっきりいうのだぞと、何度も念を押された。柏原旅館では大歓待され、畳敷きの映画館に行き、コタツに足を入れて寝るということを初めて知った。
 柏原家の系譜にも触れておかねばならない。貧農の出から身を起こしたのが明治29年生まれの柏原兵太郎で、大変な秀才であった。高小を中退、四高、東大法学部を出て、鉄道省に入っている。この3男がご存じ、柏原兵三で、芥川賞作家であり、「少年時代」の原作「長い道」を書いている。常三さんとは、叔父甥の関係である。印象では、常三さんは勝負師的な頭脳と強さの持ち主で、10年前に訪ねた時は、脊髄を痛めて歩くのに不自由だったが、碁盤が傍らにあり、囲碁好きのたまり場になっていた。今聞いてみると,麻雀には滅法強く、近所の商売人たちを相手に稼ぎに稼いでいたという。光州・弓町では父を交えて、花札に興じていたというから、父はカモになっていたのであろう。
 もうひとつの記憶である。光州には、7万坪に及ぶ敷紡工場があった。第6代朝鮮総督の宇垣一成が懇意にしていた敷紡社長に要請して昭和10年に操業を始めた。朝鮮人女工の労働は過酷で、昼夜2交代12時間連続の立ち仕事、寄宿舎と食堂間の移動も隊列を組まされ、3年間一度も外出が許されなかった。日本敗戦のことも女工には一切知らされず、いつの間にか日本人が工場から消えていたという。
 もう、したり顔で、歴史認識をどうのという年齢ではないと思っている。小さな一歩を自分の責任で果たしていかねばならない。来春には、わが生地でもある光州の地を踏まねばなるまいとも思っている。といっても2年前から始めたハングル講座だが、遅々として進歩しない。
 国会論戦が始まったが、加藤紘一の質問が面白かった。新しい公共の担い手論こそ、地方での論議の緊急課題とすべきだろう。

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