「朱の記憶―亀倉雄策伝」

 気になっていた男の自伝である。2016年の東京オリンピックのポスターを作ったといえば思い出してもらえるかもしれない。しかし、どうしてもリクルートと重なってしまう。1915年生まれの亀倉雄策だが戦前戦後のデザイン界のトップランナーである。「朱の記憶」と銘打ったのは、ポスターの日の丸の朱から取ったのだが、戦前は軍部に取り入り、戦意高揚や海外拠点での情宣作品にも手を染めていて、GHQから公職追放されている。そんなことを意に介する男ではない。亀倉デザイン研究所を銀座の焼け跡ビルに立ち上げるや、東芝乾電池のレッテルデザインを手掛ける。停電が日常茶飯事の時代だから懐中電灯が不可欠で飛ぶように売れた。

 亀倉がデザイナーを志すきっかけとなったのは全くの偶然。新潟の実家が没落して、東京の武蔵境に引っ越した。近所に住んでいたのがイタリア文学者の三浦逸雄で、中学生の亀倉に文学、芸術、映画などの話題をまるで同年配の友達に対するように語った。とりわけ映画ポスターに興味を持っていて、「カッサンドル作品集」を手に、広告ポスターが画家の手を離れて、専門の図案家の仕事になったのが1925年頃だとか、ドイツで始まった美の開放運動ともいうべくバウハウスについても三浦は熱心に教えた。因みに作家・三浦朱門は逸雄の長男。そして、34年、新聞広告での「少年図案家を求む」に応じて第1歩をあゆみ始める。

 ニコンに例を取りながらデザインとは何か、を伝えたい。54年のカメラの知名度調査でキャノンの半分以下となった。品質第一を唱えるばかりでは生き残れないと、ポスターを亀倉に依頼し、何とか「ニコンはプロ仕様の高級品」というイメージを定着させるが、そこに降って沸いた1眼レフブームにニコンは完全に乗り遅れていた。そこで提案されたのが、新たな機能を付けるのは無理だから、ここは最初の生産から亀倉に任せて、徹底した機能美を追求しようというもの。工場に乗り込み殺風景な設計室で、担当者と油まみれになって取り組んだ。正円と三角形で光学機器の硬質感と高品質感、海外でも通用する力強さが見事に表現したニコンFの誕生である。フォトジャーナリズムの中心地・ニューヨークでヒットして、瞬く間にヒット商品となった。

 さて、リクルートのケースだが、新雑誌を創刊するので、表紙デザインを頼みたいから始まった。内容はその表紙の世界観から考えていきたいという注文。意気に感じた亀倉はスキーを滑っていて、リクルートには飛翔するカモメがいいとひらめく。江副と亀倉の二人三脚はここからだ。西新橋のビルの総合ディレクターは亀倉で、その設計から取り仕切った。亀倉事務所はその1室におさまった。また安比高原のスキーリゾート開発もすべてのデザインを担当した。そして最大の危機・リクルートコスモスの行き詰まりはダイエーへの身売りという形で解決するのだが、これも最後まで見届けた。亀倉の最期だが、97年4月に安比で春スキーを楽しんでいる最中に、急斜面のコブに足を取られ転倒。その後すぐに肺炎を併発して5月にこつ然と逝ってしまった。享年82歳。写真家・土門拳との交遊も忘れてはならない。

 20年開催のオリンピックのエンブレムが迷走したのは、開催理念が明確に伝えられるものではなかったからだ。責任の主体が不明確のままで、原発の悲惨から目をそらせたいためだけでは誰もデザインすることはできない。本質と切り結んでこそデザインが生きてくる。10月解散、総選挙が決まりそうだが、自民党の選挙ポスターはどんなものになるのか、楽しみである。

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