「佐野碩」

日本を脱出する。いわば国を捨てるということだが、自民党の憲法案が施行されることになったら、若者の多くはそう考えるに違いない。時代は昭和ヒトケタの1930年代となるが、女優・岡田嘉子と演出家・杉本良吉が樺太からソ連への「恋の越境」が話題になった頃にさかのぼる。富山県立図書館の新刊コーナーにある「佐野碩 人と仕事」は圧倒的な存在感だった。サノ・セキと読む。藤原書店が昨年暮れに刊行しているものだが、これをまとめた菅孝行は藤原良雄社長から「出版界の現状を考えると、佐野碩について出版できる機会が今後訪れるとは考え難い。その覚悟でやりなさい」と激励された。定価9500円は売るというよりも、記録に遺したい一念であり、本から気魄が立ち上る。戦前日本におけるプロレタリア演劇の先駆者であり、「立て、飢えたるものよ」のインターナショナルの作詞をし、その後ソ連にわたり現代演劇の革新者メイエルホリドに師事し、スターリン粛清の嵐をかいくぐり、南米に渡り「メキシコ近代演劇の父」と呼ばれ、彼の地で散った生涯は確かに記録に値する。1905~1966にわたる61年の生涯は国際政治と演劇との壮絶な格闘であった。そのスケールの大きさ、加えてそのスケールに身を置かされてもなお仕事で結果を出していく能力と生命力には舌を巻かざるを得ない。ロシア革命初期から胚胎していた陰湿で酷薄なスターリン主義は、スパイが暗躍し、敵味方が判別できない。その猜疑心はメイエルホリドを銃殺し、モスクワ在住日本人からも銃殺26人、強制収容所送り7人などという過酷さであった。軍国主義をひた走る当時の日本人を見る眼は革命転覆を図るスパイではないかという疑惑であるが、スターリンの歓心を買うために自ら仲間を売ることもあった。野坂参三・共産党議長が晩年スパイと断罪されて、除名されていることからもこの苛烈な時代が想像されるであろう。
 さて、佐野の日本脱出は裕福な家系がそうさせたといえなくもない。その頃の官憲は彼らを「赤い貴族」と称していた。左翼思想にかぶれた子息の将来を案じた親は積極的に留学を含めた海外行きを進めていたのである。共産党指導者であり、のちに佐野・鍋山の転向声明で知られる佐野学は叔父であり、母方の祖父は後藤新平で、鶴見和子・鶴見俊輔は従兄弟ということになる。貴族コンプレックスのあるものにとっては、国家を投げ捨てることにも何ら躊躇しない思想に殉じる知性に加えて、その宿命に逆らわない品性の潔さをやはり羨望の思いでみてしまう。女性関係にしても、モスクワではガリーナ・ボリソワと同棲し、日本にいる妻・二三子に離婚の手紙を送り、メキシコにあっては舞踏家ウォルディーンと同棲している。そして語学での適応力である。ロシアではメイエルホリド劇場研究員としてロシア語を駆使し、メキシコでの晩年には日本語を忘れて、スペイン語を母語のように器用にあやつっている。盟友である村山知義や千田是也から帰国を促す手紙が舞い込むがこだわる風ではなかった。コスモポリタンとして生き抜ける素養を持った特別な男だったということか。いや、そうでもないだろう。誰しもそれくらいの素養は潜在的に持っているのだが、貧しさから来る臆病風にさえぎられているだけではないか。そんなことを考えさせる1冊だった。
 平田オリザが書いた福島原発事故での最悪シナリオを思い出す。「ことここに至っては、政府の力だけ、自治体の力だけでは、皆様の生活をすべてお守りすることができません」。5000万人が難民生活を余儀なくされ、ひょっとする韓国、中国、台湾に原発難民として受け入れ申請をすることだってあったかもしれないのだ。そのくらいの覚悟が求められる時代がやってきそうな予感がする。

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