イラクへの自衛隊派遣は志願兵でまかなう、というのはどうであろう。中曽根康弘大元帥閣下は現地での戦闘指揮を取り、文官で国連出先機関での指揮は宮沢喜一元首相。その布陣に外務省OBが加わる。斉藤邦彦、栗山尚一、松永信雄、野上義二各元事務次官たちだ。対米盲従外交を絶対としてのし上がってきたメンバーである。そのよってきたる現実はこうだ、ということを見せ付けねばなるまい。60歳以上の志願兵1000人を募集する。死亡弔慰金が1億円というから、送り出す家族は、歓呼の声だ。「おじいちゃん、頑張ってきてね。お国のためなんだから」。出征1ヶ月前から親戚、近所みんなご招待での宴会が続く。志願兵無料の歓楽街特区が全国あちこちで出現し、復古調軍歌があちこちで響き渡る。従軍慰安したいという60歳以上の婦女子もあらわれ、この人たちにも同額の弔慰金を払うことになる。坂口厚生労働大臣はこれで年金問題は解決するなとほくそ笑む。その戦闘意欲の高さを見て取った小泉首相が、予定の人数よりも多く、しかも最も危険な戦闘地域に出向くと、ブッシュにあらためて通告する。急遽自民党は選挙前日に、このことを選挙公約に掲げ、何と300議席に届く大勝利を収めることになる。そんな馬鹿げた夢を肴に暴飲をしてしまった。
そして、酔生夢死の一歩手前で、携帯電話が鳴る。いま履歴で確認してみると、11月8日00:15と記録されている。「おじちゃん、親父がいよいよ危ないから、すぐ来てくれ」という甥っ子からのもの。酔眼朦朧とした中で、富タクに電話をする。タクシーが来るまでの間、とにかく冷水をあたりに飛ばしながら、顔をひっぱたくように洗う。酒臭さを取ろうと、これまた歯茎を削り落とさんばかりに歯ブラシをこすりつける。ようやく人心地がついた。
膵臓がんの告知を受けてから一年。7年前のわが連れ合いの経験があるとはいえ、姉夫婦には何となく頼りにされてきた。そして、わが筋書きをなぞるように逝ってしまった。享年69歳。
思えば、何ともありがたい義兄であった。キャッチボールの相手をよくしてもらった。抜群の運動神経で、当時ブームであったホンダのベンリーというオートバイでツーリングを楽しんでいた。後座席に乗っけてもらって、高校野球見物に連れて行ってもらい、こっそりと無免許運転も。手先がまた器用で、障子張りは名人芸。わがわび住まいも幾度となくお世話になっていた。ひょいとやって来て、用事が済むと一声かけて風のように去っていく。控えめに、目立たぬように生きながら、きちんと生きている。そんな人であった。
飛び込んだ病室には、みんながベッドを取り囲み、それぞれに足や手をさすりながら、「ありがとう」と声を掛けている。息がだんだんと間遠になり、最後の一呼吸をするかしないか、判然としないままに引き取っていった。そのベッドの空間だけが、あたたかい光が差し込んでいるようでもあった。悲しみが安堵に変わり、よく看取ることができたという雰囲気である。幸せな最期であった。死ぬるに時あり、まさにそうである。
通夜と葬儀の間に、総選挙が行われることになる。そういえば、祖母の通夜、葬儀は、浅間山荘の中継最中。誰も心ここにあらずで、読経の声もあわただしく、それどころではないという空気であった。
明日はおじさんの葬儀に帰ってきた愚息を、首に縄をつけ、何が何でも投票所に連れて行くつもりである。