筑摩書房の原田奈翁雄が5人の若手作家を同人に季刊「人間として」を発刊している。70年3月のことで、5人とは小田実、開高健、柴田翔、高橋和巳、真継伸彦である。柴田翔以外は関西出身というのが今にして思うと、陰陽織り交ざっての大阪弁反体制派ということか。3年限定での12冊だが、青春の墓標のように書棚の中心にある。開高健だけがちょっと肌合いが違うというか、文体のリズムが合わなくて、遠い存在であった。それでもベトナム戦争を描いた闇3部作の「輝ける闇」は、芥子色の箱装の初版で真っ先に買っている。取り出してみると、68年5月清明堂にて購入、と記されていた。530円。小説の冒頭に出てくるウィスキーのジャックダニエルだけが記憶に残り、その頃から愛飲しているのだから、それほど悪い相性ではない。特にその飽くなき美食追求には感嘆とともに、あこがれを抱いている。
その開高を、わたしの、というのであれば、見過ごすわけにはいかない。余程自信のある付き合い方であろうと手にした。「わたしの開高健」細川布久子著(集英社)。著者の細川だが、いまはパリ在住でワインを探求しながら、文筆で生活しているらしい。47年生まれだから63歳ということになるが、わが同世代女性の生命力には眼を見張る。パリに行き着き、ワインに出会う。そのすべてが開高との出会いから始まっている。
関西大学で学生運動に傷つき、脱出口を探していた時に「夏の闇」に出会う。高橋和巳、大江健三郎とかの読書傾向が一変して、心にピタッと寄り添ったという。空疎なイデオロギー論争、いじけた自己否定にうんざりしていたのであろう。東京に出るしかないと思い定め、あてもないまま阿佐ヶ谷に下宿する。新宿紀伊國屋をぶらついて飛び込んできたのが雑誌「面白半分」。開高健編集とあったのに飛びつき、その編集室に何でもいいからと飛び込んでいった。1年半過ぎたあたりで、開高宅訪問を果たす。
「キミ、男と寝てへんやろ。誰でもよろしい、いたしなさい。そしたら、そんな頭痛なんかいっぺんにきえてしまうよォ」「でも誰とでもといったって」「それがあかんちゅうねん。きみら女は、愛がなければといつもおっしゃいますが、スポーツするつもりでいたせばよろしいのや」。そんな会話が飛び交う間柄となった。
まずワインの手ほどきだ。打ち合わせはいつも生のウィスキーを啜りながらやっていたのだが、ある日ワインが出された。岩の原ワインだったがその時、「まず安いテーブルワインを飲んで飲んで飲みあさりなさい。そのうちにとてつもない極上品をごちそうしてくれる機会が訪れる。するとやネ、目が開かれます。日頃キミが飲んでいるものとの差がくっきりとわかります」。ワインの序破急だが、いまパリで、開高が描いた『ロマノ・コンティ・1935年』の境地に立つ。
開高はサントリーに育ててもらったといっても過言ではない。夫人で詩人の牧羊子が同社の宣伝部にいたのが縁で、ちゃっかり滑り込み、トリスの名コピー「人間らしくやりたいナ」が生まれた。佐治敬三のパトロンぶりももっと世間が評価してもいいと思う。釣りバカのあの二人の関係よろしく、ビールの探求と称してスカンジナビアを大名旅行しているが、その素地があったからこそ「オーパ!」が出来たのである。
さて、オンナ関係である。関西オンナの深情けにほとほと手を焼いている。「死の棘」の島尾敏雄に共鳴するのだから、牧羊子にはてこずり、頭を抱え込んでいる様が見えるようだ。ベトナムの女性、愛を交わした翌日に交通事故死した女などなど多彩だ。そして、夫人からの最後の仕打ちである。食道がんで倒れた開高に、親友であった谷沢永一、向井敏など誰一人近づけなかった。げにオンナは恐ろしい、となる。細川も、「立錐の余地なし」を大学卒業時には知らなかったレベルであるのだが、粘りに粘るのである。面白半分から彼女の企画で出した「これぞ、開高健。」がいい。彼女もげに、だ。
ところで老人だが、一度サントリーの広告に挑戦してみたいと思うようになった。
「わたしの開高健」