初めて映画を観たのは、新湊は六渡寺の神社の境内だった。昭和24~25年の頃であろうか、巡回映画で木に括り付けられたスクリーンの前はもちろんだが、裏からも観ていたのである。左右が逆であろうが、それでも観たいと境内に人があふれていた。小学校に入学しての夏休みに、同級生の三上君のお父さんが映写技師をしており、新湊の繁華街・立町の一角にあった日吉館に招待された。アメリカ映画のターザンで、森永のキャラメル一箱も頂戴して、畳敷きの2階の一番前で、とても緊張して観たように記憶している。映写室にも案内してもらった。その時に見た大きく巻かれたフィルムが消えようとしている。
富山映画サークルの久保代表と久しぶりに呑むことになった。事前に、映画芸術科学アカデミーの「ザ・デジタル・ジレンマ」なる資料が郵送されてきた。映画界のデジタル化が凄まじい勢いで進んでいて、フィルムでの映画制作が終焉を迎えようとしている。富士フィルムが保存用以外の生産中止を決めており、在庫が尽きる来春にはフィルムでの映画撮影が不可能になる。コニカは疾うに生産をやめており、当面製造を続けるというコダック社は経営が行き詰まり、再建中である。撮影用の35ミリフィルムは1巻1000フィートで数万円といわれ、大量生産しなければ天文学的は高価品となり、もうフィルムでは永久に映画が作れなくなってしまう。久保代表の危機感は強く、時に絶望的な表情となる。
黒澤組と呼ばれ、録音、照明などさまざまなプロスタッフを擁し、徹底した完璧主義で撮影が進むなどは夢のまた夢で、今は監督と数人の助監督がひとり何役もこなしながら、コスト最優先、スピード第一に進められている。デジタルなら現像も不要、撮影後に色も変えることも消すこともできる。おまけに映画館に送る大量のフィルムのプリント代も、送料もかからない。
映画の始まりは1895年のフランスで、やがて音が入り、1930年代後半にカラー化され、世界で圧倒的な存在となっていった。薄い膜に銀粒子を塗りつけて光と反応させるフィルムの原理とフィルム幅35ミリという規格は100年以上揺るぎもしなかった。それが全編をデジタルカメラで撮影した「スター・ウォーズ エピソード2」が公開されたのが02年。わずか10年でフィルムの息の根を止めようとしている。
デジタルは万能ではない。すべてにシャープで、早くて安上がり、あとで何とでもなるというが、画質ではフイルムにかなわない。陰影を映し出さない。いわれてみれば木村大作の「劒岳 点の記」や「北のカナリアたち」も、風景の持つ深みのある美しさは、フイルムへのこだわりが映し出しているといっていい。そして何よりも、現場が緩んでしまうのが何より怖い。あとでの修整で何とかなるという緊張感の無さが、技術の低下もそうだが、対象に迫ろうとする創造的なものを萎えさせてしまう。
そして問題は、これをどう保存し、アクセスをどうするかに移っている。フイルムは温度と湿度管理を徹底すれば100年は大丈夫といわれているが、デジタルにすれば容易に解決できるのであろうか。保存技術の標準はどうするのか、そのコストは誰が負担するのか。制作するスタジオの商業的権利の範囲と、映画の将来的な価値によって決まるのだが、どうもハリウッドがここでも主導権を握り、グローバルにその利益を独占しそうに進んでいる。
ここで久保代表の決意である。16ミリと35ミリの映写機を保持する富山映画サークルが特攻隊になって、デジタル化に逆らって憤死する。散り際をそんな風に考えている幸せな男でもある。
来春公開の山田洋次監督の「東京家族」がひょっとすると最後のフイルム作品となるかもしれない。小津安二郎の「東京物語」に近づこうというものだが、見逃さないでほしい。
参照/北陸中日新聞11月20日朝刊「メデイア観望」。毎日新聞11月22日朝刊「記者の目」。
フィルムが消える