「おれ、演劇の授業が一番好きだ」。南葛飾高校定時制の不良ガキの言葉がいつまでも記憶に残っている。演劇の授業というのは、からだをほぐすことから始まる。からだがやわらかく、あたたかくなって感覚が動き始めてから、課題を放り込む。そうするとぐーんと課題が展開して、いままで気づかなかったような心の動きが現われてきたり、一挙にからだが解き放たれたりする。<からだ><こころ><ことば>の連携で、人間の奥深いところにあるものを揺さぶり、自分の知らない、新しいものをつかみ出してくる。これこそ生きる力なのだが、そんな訓練法ともいえる。それだからこそ、その魅力に取りつかれ、のめりこんでいくのだが、南葛の不良は長谷川伸の「瞼の母」を気持良く演じている。
碩学というと、学問が広く深い大学者のことだが、そんな大それた名前をもらった男がいる。佐野碩(さの・せき)。メキシコ演劇の父と呼ばれ、昭和41年彼の地で没した。明治38年の生まれで、演劇と格闘する苛烈な生き方がメキシコへの亡命へとつながった。その人生を「自由人 佐野碩の生涯」(岩波書店刊)が余すところなく伝えている。
自尊心、身勝手、意固地を絵に描いた男だが、自由に生きるには、これほどの資質を持ち合わせていないとできないということでもある。その出自だが、祖父に後藤新平を持ち、父は医者で、叔父に共産党の指導者で、獄中に転向声明を出した佐野学がいる。彼の反骨心と知性への忠誠が、良家での安住を許さず、頑なに演劇を通じて革命を志向したといえる。執拗な警察、特高の弾圧、監視を潜り抜け、偽装の転向をして、アメリカ、ドイツを経て、モスクワへと辿りつく。自費留学を組織でも利用した国際労働者演劇同盟・日本代表である。そんなことも意に介さない育ちの良さといっていい。
「演劇革命」を著したメイエルホリドと親交を保つが、そんな甘さをスターリン体制は見逃さなかった。粛清の嵐は誰彼なく襲いかかる。メイエルホリドは凄絶な拷問の末に処刑されてしまう。そして、スパイ嫌疑の碩は国外追放となる。パリ、ニューヨークと逃げ通すが、日本大使館が滞在を許さず、メキシコでようやく亡命が認められる。そのメキシコでトロッキー暗殺に関与したという説もあるが真相はわからない。
著者の岡村春彦は佐野碩をこう分析している。卓越した言語能力と相まった構想力、行動力の大きさと強靭さ。メキシコでもすぐにスペイン語をマスターしたのであろう。演劇人としての世界の広さ。そういう天才をも捉えて離さなかった戦争と革命の負の規定力と悲劇性。スタニスラフシキーとメイエルホリドという対照的な芸術家の精神を統合して引き継ぐ作業に踏み込んだ執念とその成果。メキシコに近代演劇の礎石を築くことに専心し、ついに故郷に帰ることはなかった。
そんな天才の頑なな思いとは別に、日本での配偶者を簡単に捨て去り、モスクワでも妻子を亡命と称して捨て、メキシコでは舞踊家と同棲している。下半身身勝手は天才だけとは限らないが、明治男の傲慢さともいえる。革命歌「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」の訳者ということも忘れてならない。
8日、高岡文化ホールで鈴木忠演出の「酒神ディオニュソス」を見たのだが、受付で若きSCOT団員が関連図書を販売していたので、雑談をした。老人向けの鈴木メソッドはないのかね、と冗談でいうと、とても体力的に無理ですという。劇団経営も厳しいだろうと尋ねると、これが終刊号ですとSCOTが発行する季刊「演劇人」を差し出してきた。文化の黄昏と片付けられない問題も孕んでいるが、洗練された圧倒的な力と、抗いがたい美の力を表現する鈴木演出といえども、その前衛が新鮮さを失いいつつあるようだ。
新たな第2の鈴木出現も待たれるが、その前に、底辺ともいうべき中学生、高校生に演劇授業を必修化することで、教育改革を図るべきだと思っている。生きる力は、からだ、こころ、ことばをひらくことからしか、生まれてこないのだから。目の前のSCOTの青年達が教壇に立つのである。
参照 「からだ・演劇・教育」(岩波新書 竹内敏晴著)
演劇の力
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