「こどものその」

大学を定年で辞めると同時に、自分の理想である幼児教育を実践しようと、私財のすべてを投じて設立した。高岡市大町にある林教育研究所付属「こどものその」で、国からも自治体からも一切の援助を受けなかった。幼稚園、保育園といった枠に縛られたら、自由な教育が出来ないと思ったからだ。昭和52年、林三雄・富山大学教授65歳の時である。明治45年生まれの97歳、わが亡父と同じ明治生まれで、息子同士は高校同期であった。8月30日、その生涯を閉じた。
 富山駅で、その姿を見かけると必ず声をかけるようにしていた。神通川を越えてすぐにある田刈屋の奥まった家から、小さな身体で自転車を駆って駅まで来て、高岡行きの列車に乗っていた。80歳を超え90歳近くまで、そんな通勤であった。ちょっと見には、大学で教育心理学を極めた人とはとても見えず、どこにもいるじいさんのように見えたに違いない。もちろん無給である。天下り官僚も無給であれば、誰も文句はいわないと思うのだが、それはさておき、ある時、ケアハウス「ちゅらさん」に引越ししました、女房の方が相当よわってきているので、と新しい名刺をもらった。それが言葉を交わす最後となった。
 「こどものその」は親立とも称している。公立でも、私立でもない、親が幼児教育に積極的に参加し、責任を持つという考えである。3歳児から受け入れているが、2歳でも受け入れている。年長、年中、年少が入り混じった教室で、食事もおやつも一緒に食べて、異年齢交流を大切にしている。また一斉の指導ではなく、朝やってくると、先生が「きょう何したい」と聞いて、その子のやりたいこと、挑戦したいことを原則やらせている。目的感を持つことが最も大事だと考え、そのことによって自立感が養えるからだ。幼児期に生きるための根底となる、希望、自主性、意志力、これを頭ではなく、身体で感じるように育てたい、との教育理念だ。
 また自分の経験から、「先生中心の教え込み競争主義の教育」は大嫌いと宣言している。富大付属小・中の校長の時に、エリート選抜に疑問を投げかけ、抽選による選抜に改善しようとして、父兄OBと物議を醸している。国立の学校が一部のエリート養成に加担し、私物化されているのが我慢ならなかったようだ。こうしてみてくると、シュタイナーの教育と似ているようにも思うが、著作からは窺うことができない。
 さて、林教授へのひとつの疑問である。わが同級生は林家の養子である。しかも高校入学時からで、それまで魚津西部中学では小柳姓であった。子供がいなかったので、多分甥っ子を引き取ったのであろうが、その意図は何であったのか。その教育理論とどう整合するのか。一度聞いて見たいと思っていたが、聞きそびれてしまった。養子という複雑さが、今思うと、彼を苦しめていたように思う。同級生は健康そのもので、人情脆くて、惚れ易い、その上酒好きで強かった。そんな性格がすべて裏目に出て、22年前に他界してしまった。浜松での葬儀に駆けつけた時、ぜひ弔辞をとその場で頼まれ、涙声で「おい、思い切り飲んでるか」と叫んだのが、昨日の様に思い出される。
 葬儀は、同級生の遺児である孫の大君が引き受けた。親父の面影を色濃く受け継いでいて、180センチの偉丈夫だ。頼もしく見えてうれしかった。横には年上の恋女房であった朱美さんがいて、元気そうに笑ってくれた。園児達が歌ってくれたのが「生きもの地球紀行」の主題歌ビリーブ、聞いていると涙がにじんできた。教育に一生を捧げた愚直な明治男、ここに逝く。そんな心地よい気持ちで葬儀会場を後にした。
 もうひとつ。鰥夫の哀しさといおうか、喪服を取り出したのはよかったが、カビが方々に出ているのだ。払ってしまえば何ともないが、ちょっとひっかかった。そして、厳に戒めるように、自分にいい聞かせた。こんなことで弱気になってはいけない。鰥夫の矜持を忘れずに、女性を家政婦とする邪な心に惑うことなかれ、と。

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