2023年新聞協会賞に西日本新聞社の「人権新時代」取材班が選ばれた。何と被差別部落出身の28歳の若手記者が自らカミングアウトして、ペンを取っている。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と高らかに謳った水平社結成宣言から100年。しかし、差別は人間の意識にペタッとへばりついている。
82歳になった父への思いから綴っている。福岡県筑後地区の実家で、机の引き出しから見つけた1枚のDVD。ケースには「私の歩んできた道」というタイトルと父の名が印刷されていた。パソコンで再生すると、演壇に立つ父の姿が映し出された。21年前の還暦を過ぎたころの講演だった。吃音があり、人前で話すことを極力避けてきた父が聴衆を前に、生い立ちを語っている。「最初で最後」「自分の人生の総括が役に立つなら」と引き受けたといい、目が離せなかった。何より、胸を締め付けられた。
父も、そして自分も、被差別部落に生まれ育った。物心ついたころから、家で一緒に過ごした記憶はほとんどない。「地区の教育環境の改善を」「24時間態勢の保育所の建設を」と「部落解放運動」に駆け回っていた。妹との間には「おやじに勉強を教わっちゃいけない」という暗黙の了解があった。夜遅く居間のちゃぶ台に向かい、鉛筆を握りしめて、広告の裏で字の練習をしていた背中を見て見ぬふりをしていた。ほとんど学校に通えなかった父は、読み書きができなかった。働きに出て味わった苦労、浴びた怒声。若き日の悔し涙が人生を貫いてきたことを思い知らされた。「逃れたくても逃れられなかった」。その一言が、重くのしかかる。
不思議なもので時同じくして、9月10日毎日新聞の戸田栄・金沢支局長から、富山の部落問題をテーマにした講演を聞いた。戸田支局長は大阪社会部で部落問題を深く取材している。その使命感から富山での取材を始め、昨年12月に「ゼロの戦後史 富山・石川の部落問題」なる連載をまとめた。戦前の1918年内務省調査で富山県の被差別部落数は220地区、1414戸とされているが、戦後富山県は「歴史の過程において実態があったことは認識しているが、現在同和地区はないものと考えているし、実態を把握することは困難である」とした。県議会においても部落問題は一度も質疑されたことはなく、「寝た子を起こすな」は官民こぞってのものだ。地区があるのに見えない「不自然」、人々がいるのに声が聞こえない「不明瞭」。加賀藩では少数点在で部落を配置し、「藤内(とうない)」「皮多(かわた)」という賤称で呼んでいた。そんなこともあって、運動を立ち上げて部落と明らかにすれば倍する差別が跳ね返ってくる。それよりも我慢した方がいい。そんな風潮がいつの間にかはびこっていった。活動を明らかにしている人がいないと取材が覚束なると嘆く戸田支局長。部落解放運動不毛の地・富山では、あらゆるマイノリティが声を挙げ辛いということに他ならない。
更に1873年に起きた(岡山県)美作(みまさか)一揆を想起する。賤民廃止令に反対する暴動だが、賤民が今まで入れなかった銭湯や村の祭りに出入りするようになり、これが本村の住民には、増長、傲慢、不遜に見えて我慢がならない。そしてある時、誰かが焚きつけるとあっという間に被差別部落への襲撃となった。家に火をつけ、竹やりで部落民6人を突き殺した。放火や殺害を行いながら進軍する一揆勢から、村々に「一揆に参加しなければ殺す」などとけしかけていた。
東京高裁は9月4日、被差別部落問題で「差別されない人格的利益」を認めた。しかし、深く潜む妬みと差別感覚。これをどう克服していくか。それぞれが深く自分に問いかけていかねばならない。