湯布院と博多祇園山笠

7月15日午前4時59分。白々としてきて、夜明けに手が届きそうな頃合いを見計らって、博多・櫛田神社のやぐら大太鼓が力いっぱいに打たれた。山留めに満を持していた一番山笠“東流(ひがしながれ)”が「やあー」と気合いもろともに飛び出して来る。急角度に旋回した1トンの山笠が、境内に踊り込む。清道旗を巡って一旦山を止め、一番山のみに許される「祝いめでた」を誇らしく、歌いあげた。感極まった舁き手(かきて)の男達が涙をにじませ、このまま死んでもいいとさえ思う瞬間である。その間きっちり1分、また態勢を整えるや境内を飛び出していく。先走りを務める小学生がほほえましく、女の子も締め込み姿で参加している。後押しも加えて、山笠の前後を数百人の舁き手が、怒涛の如くに5キロに及ぶ追い山コースを走り抜ける。コースのところどころに水を満たしたポリバケツが置かれ、水掛けがおこなわれる。水道蛇口のホースから直接水を浴びせる家々もある。水法被と呼ばれる羅(うすもの)はびしょ濡れになるがものともせずに、舁き手を取っ替え、引っ換え、ひたすら山笠は駆けに駆け抜ける。
 追い山のすべてを見たわけではないが、聞きしにまさる圧巻といっていい。午前3時に起きて、櫛田神社前の人を掻き分けて辿り着き、立って待つこと1時間。博多っ子にいわせると徹夜で待つくらいでなければ、となる。それでもこの清々しい満たされた気分はどうだ。先走りでいいから、締め込み姿で一度は駆けてみたいと思う。ついつい“うつ”に悩むあいつにもぜひ、見せてやりたい、できれば一緒に駆け抜けたい、そんな思いも。ご存じ博多祇園山笠であるが、ようやく目にすることができた。
 小松空港から飛んだのが12日で、そのまま湯布院に行き、2泊の骨休みをしている。日田へは亡き筑紫哲也さんの縁で2回ばかり足を運んでいるが、山一つ越えた湯布院も見ておかねばなるまいとかねがね思っていた。
 昭和46年、若者3人がヨーロッパに旅立った。湯布院の目指すべき将来像を見つけ出したい、という強い志を持っての旅立ちだが、ひとりあたり70万円の旅費にも苦労している。50日間の旅で、300以上の町や村を訪れた。そして理想とする小さな温泉地に巡り合った。南ドイツのバーデンヴァイラーで、人口4000人足らず、そこの小さなホテルのオーナーは3人に熱く語ってくれた。「町にとって大切なものは、緑と、空間と、静けさだ。その大切なものを創り、育て、守るために君達はどれだけ努力をしているのか」。第2の別府にしてはならない、というモデルをそこに見出した。若者のひとりは「亀の井別荘」の中谷であり、「玉の湯」の溝口である。これに「山荘 無量塔(むらた)」を加えて御三家と呼ばれている。こんなエピソードに彩られて、ブレークスルーしたのが20年前だろう。今では年間400万人が訪れ、100万人が宿泊している。
 とはいうものの、御三家に宿泊するゆとりは持ち合わせていないので、ネットで「御宿さくら亭」を見つけ出した。離れ露天付きで1泊17,850円。この料金で、申し分ない湯布院を堪能できた。特に2泊ゆえに同じものを食べさせられるのでは、と危惧したが、63歳の顔を見せない料理人は見事に杞憂にしてくれた。散歩で出かけた金鱗湖畔の「泉そば」は絶品であったことも付け加えておきたい。しかし、湯布院といえども、この不況で苦しんでいるのは間違いない。御三家のひとつは経営危機に直面しているという。
 博多に引き返す高速バスに、大きなチェロを抱えたアベックと乗り合わせた。最後部席に陣取り、ひと眠りと思っていたのだが、気になって見ると、時折キスを交わしながら、男は女性の髪を静かに撫で下ろしている。若い音楽家の恋というのは、静かで、品のいいものだなと思え、感じの悪いものではなかった。
 さて、この九州の旅は「イムニタスマスク」2000個販売を記念して、この商品を最も評価してくれた古賀市の「イトウデンタルクリニック」への表敬訪問が目的である。したがって同伴したのは、老境にはいった開発責任者であり、野次馬根性で付いてきた同級生夫婦で、艶っぽさの微塵も無い旅であった。誤解のないように。
参照・「由布院の小さな奇跡」(新潮新書)

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