こんな助言をもらったことがある。「男はね、年齢を2で割って10を足した女性と相性がいいのよ。覚えておくといいわ」。鰥夫という気安さもあったのであろう、早速計算してみる。(68÷2)+10=44歳、何と23歳年下ということになる。そんなことを思い起こさせる俳優・山口果林の赤裸々な手記である。「安部公房とわたし」(講談社)。年齢差は23年、安部は68歳で亡くなっているので、果林はその時44歳ということになる。そんなつまらないことも何かの縁ということで手にすることになった。
没後20年を経て、黙って背負い続けてきた肩の荷をもうそろそろ下ろしていいかな、との女優奮戦記であるが、現在66歳にしての勝利宣言のようでもある。巻頭から「(安部が担ぎ込まれた)病院に来ないでください」と夫人と娘から拒絶され、亡くなったのもニュースで知るしかなかった無念さが綴られている。安部との共同筆名でサスペンス小説に挑戦したこともあり、それが文章の訓練となったのか、素人の域を脱している。
出会いのきっかけは山口が入学した桐朋学園大学演劇科で、安部公房ゼミを選択したことに始まる。それまで付き合っていたのは同期の山本亘(せん)で、山本学、圭の弟である。突然別れを告げられて、もやもやしていた時期とも重なっていた。最初に結ばれたのが御殿場の高速道路わきのラブホテルという。69年というから、安部は45歳頃で、すでに芥川賞を受賞し、「砂の女」「燃えつきた地図」などを世に出していた時期だ。人気作家で、人目をはばかるとすればそういうことになるのも止むを得ないか。安部はクルマへのこだわりは強く、運転テクニックも際立っていたらしい。
私小説は書かないということでは三島由紀夫もそうだが、ふたりは語り合って飽きない仲であった。文壇との付き合いをしなかった合理主義者だが、辻井喬の忘年会、ドナルドキーンの新年会は別格で、特に辻井は西武美術館での演劇上演、車購入での西武自動車など公私にわたってパトロンという感じである。合理主義といったが、車好きと並んで、写真もプロ並みで木村伊兵衛賞の審査委員もやっている。またワープロで小説を書き上げた最初の作家といってよく、NECの文豪の開発の助言も行い、タイヤチェーンの着脱が楽にできる「チェニジー」も発明している。東大医学部卒ながら国家試験を受けず、故に医者ではない。そんな背景を持つ多彩なマルチ人間であった。
聖路加病院の検査入院が87年。前立腺がんと告知され、頭蓋骨、大腿骨への転移もあり、第4期であった。睾丸を摘出したのが88年、性的機能の喪失も覚悟し、別れを持ち出すが山口は押し返している。中絶も経験して、ようやく愛人を脱して、イコールパートナーの境地になったのではないか。
「彼がもっと生きていれば僕ではなかったかもしれない」と大江健三郎が語ったこともあり、安部がノーベル賞の有力候補であったことは間違いない。新潮社の編集者も、受賞するまではこのスキャンダルは伏せておかねばならないと真剣に考えていた。しかしこうして、あっけらかんとした手記を出されてみると、ありふれた男女のそれと違わない。人間誰しもチョボチョボであり、崇め奉る人間など存在しない。
この本の中で、懐かしい名前を見つけた。永曽信夫・元オーバードホール芸術監督である。千田是也率いる俳優座養成所の流れを汲んで創設された桐朋演劇科に所属していた。演劇の歴史を語るとすれば、この人をおいていない。現在は富山を永住の地と決めて、立山山麓の吉峰に居を構え、80歳を超えて全国を駆け巡ってもいる。演劇に殉じた男の風貌はかくや、と思わせる。粋で、洒脱なのだ。もう一度ゆっくり呑んでみたいものだ。
はてさて、老人の死後に「ゆずりは老人とわたし」なんて電子出版されるということは、やはりないだろう。
「安部公房とわたし」