【子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え】。仙台在住であった俵万智が、自分にとって一番大事なのは息子を守ることといい切り、石垣島で8歳の息子と生活をしている。全校児童13人、息子は逞しくなり、海にもぐって海草も採ってくるらしい。【どんといけと聞こえてくるよエイサーを踊る息子の太鼓のリズム】。
震災の日、俵は東京にいた。新聞社の会議というから、多分読売新聞本社だと思うが、大きな揺れをそこで感じていたのだろう。【「震度7!」「号外出ます!」新聞社あらがいがたく活気づくなり】。息子は仙台で祖父母と一緒にいたが、気が気ではなかった。携帯で連絡をとろうとしたが、右手がぶるぶる震えて、うまく操作できなかったくらいだ。陸路も空路も断たれ、山形経由で帰れたのは5日後のことだった。家族と再会を喜びあったのも束の間、翌朝には息子の手をひいて、ふたりで仙台を離れた。余震と原発が落ち着くまでという思いからだったが、避難の旅は予想外に長びき、紆余曲折を経て、そのまま南の島に住みついてしまった。そして今、避難や疎開という感覚ではないものをつかんでいるという。
もちろん、支えてくれる友人がいたことや、どこにいてもできる仕事を持っていたことなど恵まれていた。避難できて、いいですね、ともいわれるし、避難なんて必要あるんですか?ともいわれる。しかし、不条理な逃避行を余儀なくされた母子が、恵まれた条件であったにしても、言うならば言えと生きているのを誰が批判できよう。
2月11日福島市内で開かれた「放射能から命を守る全国サミット」では、全国から50以上の避難受け入れ支援団体、自治体が一同に会し、約400人が参加した。そこには「保養」「移住」の相談ブースが設けられ、地元の人が殺到した。保養は一時的に被曝低減と体力回復が目当てだが、移住は生活の根拠を一切そこに移してしまって出直そうというもの。小さな子供を抱えた家族の脱出が切実さを増しているのだ。
いわば俵万智ではない、ノンエリートの逃避行がこの3月をピークに始まろうとしている。女は子宮で考えるというが、放射能については原子力村のメンバーより、余程正しい危険予知能力を持っていることは間違いない。俵そっくりの女房相手に勝てるわけがない家族会議を経て、「3月末で実は退職を」と申し出る30~40台の父親達の心情を思いやらざるを得ない。仕事は確保できたのであろうか。
腹立たしいといえば、飯舘村の人々であろう。震災の被害は割と少なく、近隣の被災者の受け入れに大わらわの3月15日、原発から40キロ離れた飯舘に放射性プルーム(羽毛)が狙ったように覆った。半信半疑のモニタリングの超高数値である。計画的避難区域に指定され、全村避難となった。人口6000人ながら合併をせず、気高い自立の「までいライフ」を実践してきた人たちである。「真手(まで)=ていねいに、心を込めて」を信じて作り上げてきたコミュニティが放射能で、土と結びついた暮らしが根こそぎ奪われた。
福島県から6万人を越える人が県外に避難している。帰りたいが帰れない、戻りたいが戻れない、多くの人の心は揺れ動く。政府は警戒区域と計画的警戒区域を見直し、除染を進めて帰宅につなげようとしている。そうすると「帰れない」から「帰らない」になる。帰らないわがままな人に補償は必要ないだろうと変わる。
いつか見た光景と重なっていく。66年前の戦後の引き揚げがそうであった。いつまでも被害者ヅラしてるんではないよ、といわれる日常がどういうわけか始まっている。【係員の入力ミスか「日本は終了しました」とある掲示板】
参照/「俵万智3.11短歌集あれから」(今人舎)「飯舘村は負けない」(岩波新書)
逃避行