わが二十四の瞳

新湊小学校3年、4年は同じメンバーで、担任も奈呉瑤子先生の持ち上がりだった。昭和29、30年のことである。思えば濃密な2年間であった。社会科の授業では、漁業の仕組みを学ぼうということで班毎に分かれ、町に飛び出した。魚市場のせりを見て、仲買の鷲北水産を訪ね、大きな神棚がせり出した部屋で長火鉢を前にでんと構えた社長に、かしこまって話を聞いた。魚屋の店先ものぞき込んだ。それを雁皮紙(がんぴし)にまとめ、班毎に発表しなければならない。集まるのは銭湯を営んでいる広川睦美の家か、専念寺の今堀萌の本堂であった。作業は女子にまかせて、男子はすぐに鬼ごっこや周囲への探索に興じてしまう。女子からはいつも文句をいわれた。クラスは55人、10人前後の班編成で競い合わされた。奈呉先生は大学卒業間もない24歳くらいか、意欲十分だった。
 毎日日記を提出させられ、それにすべて返事が来る。詩も毎日書かされて、それぞれの詩集も発行している。「ぼくのゆめ」「ぼくのきぼう」と拙い字がそのままのガリ版刷りで手元に残っている。学芸会の出し物は「かぐや姫」。翁役を割り振られたが科白をまじめに覚えていかず、こっぴどく叱られたのを覚えている。あなたが覚えてこないと、みんなが迷惑するのがどうしてわからないの、というわけである。
 その奈呉先生から電話があった。現在81歳、ひとり住まい。自宅で急に気分が悪くなり、嘔吐して意識朦朧となって、娘が呼んでくれた救急車で射水市民病院に運ばれたとのこと。退院して1週間になるが、脳は大丈夫らしいが、肺に異常があるという。恩師のこととなれば、電話ですますわけにはいかない。駆け参じて、門前の小僧、習わぬ在宅を説くことになった。
 8月はどうしてもセンチメンタル・ジャーニーになってしまう。この1件の前にも、小学卒業以来、初めて盃を交わすうれしい交流があった。
 6学年の冬場に、クラス対抗の相撲大会が恒例となっていた。宿直室前のちょっと広い廊下にチョークで描いた土俵が作られた。5人の代表がそれぞれに戦う団体戦である。2組と4組とが勝ち上がっての決勝で、2-2となり大将同士の取り組みで、雌雄を決する状況となった。誰しも4組の寺井昭雄が勝つと予想していた。アッキョと呼ばれて、みんなも一目置く存在であった。2組で相手をする老人は、背丈では勝るものの、体重及び腕力では相手が上、速攻でやるしかないと思い定めていた。先生の軍配が返ると、前裁きよく相手より早く踏み出し、手を差し伸べるように差し出すと、相手は土俵を割っていた。予想を大きく覆す結果である。寺井は悔しくてその夜は眠れなかったと回顧する。パークゴルフ仲間の沢定之からの連絡で、お前も覚えていたのか、呑もうということになった。
 思いがけない訃報もその席で聞いた。釣延孝の死である。中学3年の少年野球大会準決勝でのサヨナラ逆転満塁ホームランは、彼の潜在力の大きさを見せ付けた。彼の毒舌にかかった稲垣クニ子は、「釣のブタか」と溜飲を下げてもいた。また、老人が書いた新聞の小さなコラム「島倉千代子」を読んで、これは宮本進一のことだろう、とかの暖かい感想を聞かせてくれ、拙著も実家に駆けつけ買ってくれた。ナイスガイであった。
 はてさて、二十四の瞳では迫りくる戦争が運命を左右したが、こちらはやはり貧困との戦いであった。幼児を連れて登校する同級生もいたが何の問題もなく、給食を分け合っていた。横一線に並んでいたといっていい。中学卒業が大きな分岐点となり、塊が弾け散るように厳しい世の中に放り出された。
 あれからざっと60年、人生の終楽章で生病老死の試練が待ち構えている。往事茫々、いざ、死よ驕るなかれ!

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