初めて画家・横山操の赤富士を見たのは、インテックの社長室であった。金岡幸二社長は、見入っている若者に得意そうに「横山操だ」と教えてくれた。金岡コレクション収集の初期のことかもしれない。そして、この横山が富山・総曲輪商店街の入り口に輝いていた花馬車のネオンサインをデザインしていたのだ。このことは彼の出自に関わっている。1920年に新潟・燕市で私生児として生まれ、14歳で洋画家を志し、上京するも、図案の仕事で糊口をしのぐしかなかった。働いた会社名は不二ネオン。53年のことで、そこに発注した総曲輪商店街会長の瀬川朝秀が「横山操の名前を知っとるもん、だーもおらんちゃ」と悔しがったという逸話が残っている。そんな関係もあり「生誕100年記念 日本画家 横山操展」が富山で開かれたのだろう。
忙中に閑を求めたというべきか。10月31日選挙事務所の明け渡しを終えたあと、そういえばと思い立ち、富山県水墨美術館に足を運んだ。法定得票に達しない敗北に打ちひしがれた思いだったが、横山の不屈な画業への思いに妙に癒された。美術館併設の茶室・墨光庵で、赤富士という菓子で抹茶を呑んだことも、生気を取り戻すきっかけになった。
さて、画家の話に戻る。その後日本画に転じ、青龍展に「隅田河岸」が入選し、これからという時に徴兵される。中国戦線に従軍し、敗戦となるもシベリアに抑留されて、カザフスタンで石炭採掘の強制労働の苦難に耐えなければならなかった。最も大切な20代の大半である。この理不尽な10年こそ、彼の原点となっている。50年に復員、帰国してから、時間を取り戻すように画業にのめり込んでいく。その作品は、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色を駆使した、大胆で豪放な作品といっていい。それと対照的な静謐を描く加山又造とは、お互い認め合うライバルとして、日本画壇をリードしていく。この二人展を企画したのは銀座の村越画廊。画廊の才覚と醍醐味だ。
煤(すす)や石灰などを画面に擦り付けする画法は、同じシベリア抑留画家である香月泰男と通底する。60年「赤富士」の連作が人々の人気を集め、有名画家となるのだが、それは奪われた10年を取り戻すように寝食を忘れ、時に2日で仕上げる無理も平気でやった。加えて自他ともに認める酒豪で、酒の飲みすぎにより脳卒中で倒れたのが50歳の時、右半身不随となったが左手で制作を続けた。
作品の好みでもあるが、確かに赤富士はいい。しかし、迫ってくるのは初めて渡米し、目に焼き付いて描いた大作「グランドキャニオン」。岩肌に映える夕陽が、自然の雄大さと人間存在のちっぽけさを対照させている。加山の勧めで多摩美の教授に就任し、教壇から「被害者になるな、加害者になれ」という自らの生き様を彷彿とさせる言葉で指導したというが、難解だ。しかし、生徒達に人望があったという。53歳、アトリエで逝った。
取り敢えず図案で身を立てて、画業への野望を隠していたのは、滑川在住だった亡き池田太一もそうだった。わが先輩であるが、この美術展で思い出させてもらった。知事選の厳しい総括を前に、心安らぐひとときに感謝である。