70年近い人生だが、歌謡曲が寄り添うように時々の情景を彩ってくれている。最初の記憶は美空ひばりの越後獅子の歌。戦後間もなくの巡回映画は鞍馬天狗で、新湊・六度寺の神社の境内だったが、これを聞くと今でもありありと脳裏に浮かぶ。枝木に吊り下げられたスクリーンの裏側もひとだかりで、まるで祭りのにぎわいであった。
島倉千代子の訃報はそんな思いを更に確信させてくれる。「この世の花」「からたち日記」だが、昭和30年頃で、わが家の裏に住む新湊小同級の宮本進一の母親が大ファンであった。戦争未亡人で3人の子どもを魚の行商で必死に支えていた。家も2階部分を借りていたのだが、大家もまた未亡人で2世帯が肩を寄せ合って住んでいたが戦後はどこもそうであった。「君の名は」のヒットが昭和27年なのを考えると、その頃ラジオがどの家庭にも行き渡っていたのであろう。
99年に日経論説委員の田勢康弘が「島倉千代子という人生」(新潮社)を著した。彼はどういうわけか島倉の歌に惹かれていて、中学3年の時に島倉後援会北多摩支部を訪ねている。毎回集まるのは7~8人だが、どこか幸せでなさそうな人が多かったと回顧する。
田勢が出身地の山形での講演会に招かれた時、島倉もそこに出向いている。話題が島倉に及んだ時に、会場の後ろから島倉本人が「人生いろいろ」を歌いながら客席に降りて来て、誰も予測せぬ登場となった。聴衆は本物かどうかいぶかっていたが、本物だとわかると割れんばかりの拍手が湧き起こった。そのまま壇上に上がり、即席のトークとなったのだが、島倉の話は自然で面白く、温かかった。終わりに「東京だョおっ母さん」も歌ってくれたという。こんな逸話は数多い。母なる泣きの島倉の所以でもある。
そして演歌の巨匠・星野哲郎が綴る名歌誕生秘話集「歌、いとしきものよ」(岩波現代文庫)をひも解いてみる。「からたち日記」は五木寛之の小説で“演歌の竜”と呼ばれた馬渕玄三が作詞家・西沢爽に、この世の花のヒット以来人気が落ちる島倉を何とかしたいと頼み込んで生まれた。台詞入りの歌は当たらないというジンクスを覆すものだが、北原白秋に心酔していた西沢の引き出しから一遍の叙事詩が紡ぎだされた一瞬でもあったのだ。
島倉の歌で星野が作詞しているのは「思い出さん今日は」である。いわば星野のプロデビュー作で、サガンの「悲しみよ今日は」にヒントを得て作詞したのだが、担当プロデューサーがボツにしたが、船村徹が何とか押し込んで古賀政男が作曲した。その古賀が「詩はお姉さん、曲は妹です」といっている。「詞の命は出だしの2行にある。そこで人のこころを捉え、<いい歌だなあ>と思ってもらえばしめたもの」と星野は話すが、作詞家にとって最も大事なものは、テクニックやセンス、時事的な嗅覚も必要不可欠といえるが、「弱者への目線」であり、「やさしさ」ともいえる。
ともあれ、そんな歌をもっていることはありがたい。老人が5曲挙げるとすれば「別れの一本杉」「ああ上野駅」「なみだ船」「五番街のマリー」「北の宿から」となる。そういえば、自死した藤圭子もいつかテーマとしたい。
といいつつも、とても捨て置けないことが加速している。アベをトリックスターに仕立て上げ、日本の政治を得体の知れない変容へと追い立てている事態だ。新しいファシズムに足を入れつつあるのかもしれない。そんな中で、角川短歌賞を受賞した吉田隼人の歌が新鮮であり、粗暴ともいえるエネルギーを感じさせる。「いくたびか掴(つか)みし乳房うづもるるほど投げ入れよしらぎくのはな」。もう従来手法では食い止められないかもしれないという老人の弱気な断念に、恋人の自死に直面したような青年の無謀が立ち向かっていく。そんな予感を信じたい。
「歌、いとしきものよ」