「筑紫哲也と自由の森大学」

 「え、なんで今頃」。行きつけの本屋の新書売り場。集英社新書「筑紫哲也と自由の森大学」が平積みになっている。30年前の話題が、今頃並ぶのか。新刊ではないだろうといぶかって、巻末を開いてみた。26年1月22日刊行とある。間違いではない。購入して早速開いてみると、懐かしい思い出がよみがえってきた。

 「筑紫哲也と自由の森大学」との接点は、魚津市にあった洗足学園魚津短期大学の閉校。1980年に開学し、2002年に閉じたのだが、音楽科、文科各100人のこじんまりした分、街に溶け込んでいた。池田弥三郎などの名物教授が町の飲み屋に日参するなど、市民も気軽に声を掛けていた。人口4万強の都市にはやはり荷が重過ぎたのだろう。筆者は地方紙の魚津支社長という仕上がりポストで、昼頃の出社で夜のつきあいが中心であった。コントラバス奏者で名前の通った中博昭さんが学長で、雇用に不安を抱えたスタッフからの突き上げもあり、憔悴しきった表情で盃を交わしていた。こちらも名案があるわけではなく、黙って付き合うしかなかった。

 そんな時に、筑紫哲也が自分の郷里である大分県日田市で「自由の森市民大学」を開き、1000人規模の市民が動いて、地域おこしにもなっているという情報が舞い込んできた。当時人気のあった政治評論家・福岡政行を招いての講演会の終了後、ちょっと時間があったので洗足短大へ立ち寄った。サービス精神旺盛な福岡は、すぐに筑紫哲也を紹介するという。とんとん拍子で、魚津の有志・若林、慶野両氏が賛同して、日田市に飛んだ。筑紫哲也が断るわけもなく、ふたつ返事で、魚津を姉妹校とし、学長職も引き受けてくれた。

 2002年3月17日、魚津「森のゆめ市民大学」が開校した。洗足短大の講堂は1000人を超える人で埋まった。今更ながら、筑紫哲也の知名度と市民の好奇心の強さに驚いた。また市民大学の講演だけではなく、市民講座として文学、音楽など短大の資源を活用していくことになった。事務局スタッフとして臨時ながら、洗足の職員が担当することも。長く続けることは難しいが、取り敢えず緊急避難するところがあるということ。地域おこしの肝である。

 更に伝えておきたいのは、筑紫哲也の人柄である。ほとんど世間の常識には拘らず、誰とでも、どんな話題にも興味を示す。番組のある週日でも、昼間は音楽などの公演に出掛ける。土日は全国いたるところに気ままに出掛ける。魚津にもそうで、その相手をしてくれたのが、現在県議をしている澤崎豊。県内いたるところに案内し、徹夜麻雀にも付き合った。期せずして人を育てているといっていい。筆者の拙い著書の推薦文も、時を置かず書いてもらった。2008年11月7日、肺がんで亡くなった。享年73歳。

 はてさて、集英社もよく新書として刊行することを決めたものだ。新書は1万部販売が分岐点といわれる。取り敢えず、魚津の知人に知らせたが、どんな目算をしたのだろうか。

 

  • B!