「台湾海峡1949」

台湾から東アジアをみる、中国をみる。意外と見落としてきたものが見えてくるのではないか。そんな思いがしていたのだが、格好のノンフィクションをようやく手にすることができた。「台湾海峡1949」(白水社)。紀伊国屋富山店の奥まったところに1年間も待っていてくれたのである。
 25年前になるだろうか、国際シンポを手がけた時に、二つの中国の扱いで苦労した。後援団体から扱いを正しくしなければ降りると脅され、台湾の公的な出先機関「交流協会」は六本木にあるのだが、夏真っ盛りに昼飯抜きで駆けつけた苦い記憶がある。
 著者は台湾文壇の重鎮と呼ばれる龍應台。彼女は52年台湾高雄県生まれの外省人で、この執筆のために香港大学が1年間「龍應台執筆室」を提供してくれた。加持祈祷をするように、膨大な歴史資料に分け入っていき、ついに脱稿する。「どんな偉業のためだって、女の“美貌”を犠牲にしちゃいけないよ」という激励の美容宅急便がありがたかったという。
 45年日本の敗戦を待っていたかのように国共内戦が始まる。抗日戦線を維持するために辛うじて成り立っていた国共合作が崩れ、蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党との、血で血を洗う熾烈な戦闘が打ち続く。その終幕が49年であり、敗れた蒋介石を含む200万人を超える軍人、難民が台湾になだれ込み、まったく様相を変える。周到に故宮博物館の文物を運び出し、いつかは大陸反攻という夢も持つのだから、難民というのは当たらないかもしれない。
 49年6月2日、人民解放軍はすでに青島を包囲し、国民党軍の撤退行動が始まった。10万の大群が息を殺してひた走る、目的地は埠頭であった。何十隻もの輸送艦が青島の沖合で待っている。将軍は9時45分に艦船を出航させた。埠頭には乗船できなかった2000人の部隊が残され、10時30分人民解放軍が怒涛の如く押し寄せてくる。残されたものは海になだれ落ちるしかない。香港であれ、上海であれ、そんな地獄図絵が沿岸部で繰り返された。
 1895年下関条約で始まった日本統治だが、42年戦況が厳しくなり、台湾で志願兵を募集する。当初は輸送や後方支援の軍属、軍夫で126,750人だったが、軍人にも拡大して207,083人となった。20万人あまりの台湾人青年のうち30,304人が戦死している。しかしこれで終わらない。国共内戦で狩り出されるのである。
 呉阿吉の証言である。17歳で農業をしていて力仕事があると国民党軍に誘われて、着いたところが上海。飛行場の守備についたが、そこに共産党軍が攻め入ってきて負傷して捕虜となり、解放軍についていく。そこでも負傷したのだが、今度は朝鮮戦争に従軍させられる。鴨緑江を渡ったのだが、雪と氷の寒さは死ぬほど辛かった。それでも大陸に留まり、結婚もして子供もできた。そして晩年になって、故郷が恋しくなって92年に帰った。羽毛のような人生である。それでも記録に留めねばならない。
 台湾では45年から49年の変化を「犬が去って、豚が来た」と評する。つまり、天皇による絶対君主制(犬)が終わったら、国民党による一党独裁(豚)が始まったというのである。特に47年に起きた2・28事件はその象徴でもある。日本軍の武装解除のために上陸してきた中華民国・南京国民政府軍は、すべての統治機関での要職を新来の外省人が独占し、その腐敗ぶりは激しかった。それに抗議して、もともと台湾にいた本省人が蜂起したのである。これを蒋介石は徹底的に弾圧し、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したといわれている。
 43年のカイロ会談での中国の正統な代表は蒋介石であった。国連の代表権もそうで米ソ冷戦がそれを支えていた。中華人民共和国が国連での代表権を獲得するのは71年である。建国から22年を要した。
 孫文、蒋介石、毛沢東だけが歴史ではない、大きな歴史のうねりの中で、けし粒のように翻弄される小さな人間こそが歴史の基層をなしている。

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