「生きることの世界レッスン」

 どこで、どう生まれ落ちるか、自分では選べない。ひょっとしてガザで生まれ、ハマスの戦闘員になっているかもしれない。またエルサルムで生まれ、イスラエル軍兵士になっているかもしれない。それでも生きていくしかない。それでも生きよ、生きる価値があるのだ、とフランクルはいう。ナチスのアウシュビッツ強制収容所を生き抜き、「夜と霧」を著したあのフランクルだが、ガザの地上侵攻で相まみえるハマスの若者と、イスラエルの若者にどんな言葉をかけるのだろうか。

 78歳の老人にして、こんな不条理な疑問を抱え込んでしまった。加えて、韓国旅行での無理が出たのか、風邪気味の体調が思考回路を危うくしている。昨夜は湯たんぽのお陰でぐっすり眠れて、ようやく抜け出すことができるかもしれない。気を取り直して10月30日、秋晴れもあり、久しぶりに富山県総合体育センターに出向くことにした。芝生のトラックには誰もいない。ランニングシューズに履き替えて、スタートラインに立ってみた。思い起こすのは、中学3年の時出場した全国放送陸上大会200メートル走。人生で初めて全国が視野に入ったといっていい。家族や地域に囲まれていた子ども境遇から、ひとり見知らぬライバルと競わなければならない世界があることを思い知った。

 そして空を見上げると、高村光太郎の「秋の祈り」が数年ぶりによみがえった。「秋は喨々と空に鳴り 空は水色 鳥は飛び 魂いななき 清浄の水こころに流れ こころ眼をあけ 童子となる」。この詩は上京して初めての休日に神宮外苑に足を延ばし、口ずさんで涙を流した若き日の思い出だ。人恋しさから抜け出して、大人への足掛かりになった。

 演出家の竹内敏晴が「生きることのレッスン」(トランスビュー刊)で、からだが劈(ひら)かれる時、ことばが劈かれる時を、いい当てている。抑圧された状況に置かれると、怖がり避けるようにからだが追い込まれ、まっすぐ声を発すること、相手に働きかけることを忘れてしまう。これを突破するために、からだをほぐし、こころをほぐし、人間として劈かれるレッスン手法を演劇の演出手法の中で見出していった。例えば道化師を演じながら、教師の悩みを言葉や仕草で演じ続けると、妙に悩みが氷解していく。

 人間はそのままでは人間ではない、人間になる契機を得て「人間になっていく」。ガザで生まれて、イスラエルの徹底した抑圧に憤りを感じ、絶望の中で命を賭してレジスタンスに投じていく。そこに現れたユダヤ人の子供が恐怖に顔を引きつらせて、この青年を見る。ガザの青年は動揺する。一方でガザに侵攻したイスラエルの若い兵士は空爆のがれきの下で、幼い子が血まみれになって泣き叫ぶ現実を見て、何か間違っているのではないかとの疑念が浮かべる。

 きっとフランクルはこんなことを叫ぶだろう。上司の命令に従うしかなかったという悪の凡庸たるアイヒマンを抜け出し、人間を生きることに目覚めよ。生まれ落ちた民族の憎しみの暴力連鎖から、人間として普遍的な平和と自由と平等を基礎とした共同体国家に作り直すことができる。ハマスとイスラエルが共存できる、生きるための世界レッスンを開いていこう。

 どうも風邪がぶり返しそうな気配である。老人の妄想癖にも困ったものだ。

 

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