75歳の師走雑感

 商家の師走というのは、晦日に向けて掛け取りに走り回る。そのカネを銀行に持って行って手形を落として、ようやく正月を迎える。昭和30年代のわが家がそうであった。小学生であったが、祖母と一緒に掛け取りである。祖母は「ちょっこんでもくだはれ」と粘っている横で、早く終わらないかと気を揉んでいた。明治14年生まれの祖母は字が読めなかった。明治の識字率は女子30%というから、恵まれていなかったというわけではない。やり取りの記録がないのに、どうしていたのか不思議である。一段落して、近くの銭湯に駆け込むのだが、湯が真っ黒になっていた。どういうわけか、父はそれから座敷を片付け、床の間に天神様を飾り付けて眠りにつく。年越しそばや、お節とは無縁であったが、そんなものかと思っていた。不満などなかった。あの頃に賀状なんかの記憶はまったくない。

 その賀状だが、最初に書くのは新湊小学校恩師の奈呉瑤子先生と決めている。ふと思い出したのがラジオでの授業。ラジオもそれほど普及しておらず、教室の正面上に据えられたラジオから流れる社会科「マイクの旅」に聞き入った。記憶に残るのが北海道の多分、中山峠で見晴らしの良さを語っていたこと。雄大な自然があることを知った。クラス定員は55人。教室の後ろに空きがなく、父兄参観日は廊下から覗いていた。少人数教室への動きが加速しているが、多人数の多様さも捨てたものではない。ちょっと知的障害のあるY君は集金袋をみんなに渡す役割を与えられ、名前を呼びながら笑顔で配っている光景は今でも焼き付いている。

 蛇足になるが、給食風景も時代を映している。カレーの時の大騒ぎだ。お代わりができることになっており、いただきますと叫ぶや否や、口の中にかっ込んで、前にあるカレー鍋目掛けて突進していく。やおらスプーンを鍋底に這わせるように掬い上げる。後ろの人間は気が気ではない。速く回せとせっついている。廻らなかった生徒のがっかりした表情といったらない。男子の独壇場で、女子は軽蔑した笑いを浮かべていた。隣の女子が自分の嫌いな食材を渡してくれるのも、心底うれしかった。電力不足で週1回停電の日があり、その日は給食がない。家庭の格差が見える日でもある。菓子パンはまだいい方で、我慢する子もいた。子供の健康に給食の果たす役割は大きかった。

 体育の時間だが、男女が同じ教室で着替えもしていて、ジェンダー配慮など全くなかった。礼法室で体重測定もやるのだが、女子が胸のふくらみを隠すことなくやっていた。男子は、あいつの大きいなとニヤニヤしていた。

 賀状の話題をいまひとつ。どういうわけか「ふるさとの山に向かいていうことなし」という啄木の一節がふと思い出された。小学校からの友人で、大学に入っての初めての下宿にしばらく一緒に住んでいた。ふたりとも東京という環境もあり、知識欲にあふれていた。ある日一冊の本を差し出してきた。「啄木の悲しき生涯」(河出書房 昭和40年刊 280円)。啄木の天才と貧困、その不遇にたじろいた。その本がわが書棚に残っており、その記憶を彼への賀状に綴った。

 さて、コロナは貧困と格差も撒き散らしている。もう元の生活レベルに戻ることはないだろう。暖冷房もなく、給食が空腹を満たす、55人というすし詰め学級。そんな記憶から、生きていくために何が必要なのか。その優先順位を考えてやっていかざるを得ない時代が到来している。

 声を掛け合って、この時代を乗り切っていこう。どうかよい年を!

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