「逝かない身体」

この書名からどんな連想が浮かぶだろうか。逝きたいのに逝かない、逝かせたいのに逝かない・・・・。難解だが、編集者の苦心がうかがえる。ひょっとして会心のネーミングと思っているかもしれない。前々回の「月刊みすず」でピックアップしたのだが、紀伊國屋富山店で「ゆくというのは、逝去のあれで、・・」と書名を挙げたら、対応した店員ではなく、後で聞いていた店員がすっと差し出してきた。誰かの注文品では、と問いかけたが笑って答えなかった。「軍艦島」は在庫がなく、これも難しいと思っていたので驚いたのはもちろんだが、これはすぐに読むべしということだな、と縁を感じた。「逝かない身体」は医学書院というなじみのない出版社から出ている。文京区本郷にあり、医学書分野の名門で、日本一の給与水準を誇っていた。過去形にしたが、現在もそうかもしれない。わが家の医学書院刊は2冊目で、121回で紹介した「べてるの家の非援助論」以来である。
 「逝かない身体」に続けて、「ALS的日常を生きる」とある。ALSの日本病名は筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)。95年に発症した母を12年間介護した、長女である川口有美子の記録である。すべての筋肉がだんだんやせて、力がなくなっていく難病だ。筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)が障害をうけ、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなり、力が弱まって、筋肉がやせていく。その一方で、体の感覚や知能、視力や聴力などは保たれている。動かない身体に、研ぎ澄まされた感覚だけが残されるといっていい。瞳孔の動きで意志を伝え、ブログを維持し続けているALS患者も多い。したがって介護も繊細で、特別な資質が求められる。
 人間の生の究極は、食べることと排泄すること。これ以外にない。食べるは胃ろう、経管栄養でまかなうとして、排泄だ。いきむ事ができないので、摘便となる。新聞紙を重ねて広げ、陰部洗浄用のボトルや、汚れた布やペーパーを置く場所を確保し、腰とベッドの間に尿取りパッドを敷き、その上に横向きにして、後側から便を採る。直腸にある便に指があたらなければ、もっと奥の方にあるから、もう一方の手で下腹部を押して肛門近くまで便を誘導する。これくらいは序の口だ。ひっきりなしにナースコール(自宅であっても)を押されて、身体の微調整を求められる。24時間365日の介護といっていい。
 人工呼吸器をいつ取り付けるか、が大きな決断のときでもある。「生きたい」「死にたい」で揺れ動く患者、介護のために長女の家族をこれほど犠牲にしていいのかという自責の思いなどを含めて、人工呼吸器はもう戻れない選択をすることになる。この母は10年、逝かない身体をもって生き抜いた。介護する側も最後に残された身体のぬくもりから、母の愛のようなものを感じ続けたことになる。
 さて、その結末だが、圧倒されるものだった。一言で犠牲というが、長女の生活を一変させた。金融機関に勤める夫と共に英国に赴任している時に、発病が電話一本で知らされた。父と妹に任せられないと決断し、夫だけを残し、ふたりの子供を連れて帰国する。これが遠因となって離婚も受け入れる。介護するという決断がどんどん人生を回転させていく。その回転する波に身をゆだねるように、むしろ積極的に受け入れて、憎むべきALSを自分に与えられたテーマにしてしまう。実に逞しい。そしてとことん突き進んでいく。
 母の亡くなった後の家は、ALS専門の介護派遣事業所に改造されて、有限会社ケアサポートモモ代表取締役となる。またいつの間にか、日本ALS協会理事、NPO法人さくら会理事となり、母の亡くなる3年前に多少手の掛からなくなったのを見計らって、ALSを学ぶために立命館大学大学院博士課程に進んでいる。「母と母の身体で学んだことが介護の事業化につながり、私は経済的にも自立することができた」。ALSの介護を悲劇、お涙頂戴で終わらせない。介護生活の皮膚感覚の延長で、自立していく。女恐るべし。
 就活というのも、こんな生き方に大きなヒントが隠されているように思うがどうだろう。

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