人生のもし、を楽しむことができた。50余年前の就活のことだが、集英社の内定をもらっていた。当時は就活といっても、権力の軍門に下るという意識もあり、会社訪問などする気になれなかった。学生運動で傷ついた友人を思えば、後ろめたさもあり、公募のマスコミ界をとうそぶいていた。保守的な性格もあり、つい地元の地方紙を選んでしまったが、もし集英社だったら、どんな人生だったのだろうか。時に想像する。そんな思いを、そのまま描いてくれた書下ろしが偶然見つかった。「私説 集英社放浪記」(河出書房新社)で、著者は鈴木耕。秋田出身だが、同じ45年生まれで、同じ早稲田大学、心情左翼的な体質もよく似ている。まるで分身がそのまま働いているようだ。初任給はこちらが27000円で、あちらが4万円。これは肯ける。地下鉄神保町駅を中心に、始業が11時前後で、ほぼ界隈で飲んでは終電で帰宅という日々だったに違いない。その頃の集英社は典型的な大衆雑誌の出版社で、岩波、文春、新潮の老舗からすれば見下される存在であった。しかしその後の急成長は、企業もそうだが個人としても、その配当を楽しめた。何よりも自由な空間があった。それは時代であり、集英社も地方紙も変わらない。働いたというよりは、時代を泳いできたという感じだ。
さて、鈴木の配属先は「週刊明星」だった。ライバルは先行の「週刊平凡」で全盛期の映画情報で150万部を記録していた。二匹目の泥鰌を狙うのが集英社商法。これを60年代に出現したグループサウンズを特集し、出し抜いていく。読者ページを担当した時に、麹町中学で内申書裁判を行った保坂展人・現世田谷区長を取り上げ、意外な支持を獲得した。雑誌編集に欠かせないのが「稿料常勤者」。編集部にデスクもあり、編集会議にも参加し、常勤フリーランスの異能異色人材で、欠かせない戦力である。ここで雑誌編集の基礎を叩き込まれた。
「月刊プレイボーイ」に異動し、著名人インタビューを担当する。5時間くらいのテープを速記者に起こしてもらい、そこから編集する手法だ。堤清二、村上春樹などだが、時流を理解して人選し、取材力や文章力に磨きをかけた。それから「週刊プレイボーイ」に移り、先行の平凡パンチを追いかける目が回るような現場に立ち向かう。94年11月22日号で、何と「敦賀原発銀座で悪性リンパ腫多発」という調査記事をぶち上げる。福井県、動燃、電事連、科技庁などから猛抗議を受けるも動じなかった。データで反論できず、建前だけのポーズに過ぎないのを見抜いていた。あの花田紀凱から、落ち目の朝日ジャーナルを作ってんじゃねえやと罵倒されるも、怯まなかった。編集魂を権力に売り渡した花田嫌いは今でも公言する。そして「現代用語の基礎知識」の向こうを張った「イミダス」を経て、集英社新書の創刊の企画書から携わっていく。そして、これを花道に06年10月30日で定年退職する。61歳になる前日が退職日となっている。集英社は私にとって住みよい会社でした。別にとんがった考えの持ち主ではないが、周りからはいつでも「青いヤツ」とみられていたようです。というわけで、体質的に権力に素直になれないタイプで、いわば出世はしなかった。
そして、いまはどうか。集英社を辞めた時、もうどこにも属さないと宣言。「平和ボケ老人」といって卑下しているが、「マガジン9条」コラムで原発事故情報をこれでもかと書き付け、高円寺の反原発デモに積極的に参加し、沖縄も太田昌秀知事の知己を得て、市民ネットテレビ「新沖縄通信」のレギュラーになって通い続けている。
編集とは「殿戦」だ。しんがり戦とは、逃げながら戦うこと。然し、最後の踏み止まるべき阻止線だけは、絶対に譲らない。
やはり、同感の好漢である。もし会うことがあったら、「鈴木よ、君が秋田魁新報で、俺が集英社ということもあり得たな。でもよく書いてくれた」と声をかけ、飲んで語り尽くしたいものだ。