ブリジストン美術館

これが青木繁の「海の幸」か。中学の美術教科書で見て以来の本物。それほど大きな絵ではない。港町で育ったから、海の匂いがする豊かな表情の漁師たちの行進が妙に記憶に残っている。特に年老いた漁師の後を、獲物を背に誇らしげに歩く少年。漁を生業として、祖父、父、息子と命をつないでいく暮らしがそこにある。東京美術学校時代に千葉の海に写生旅行に出かけての作品。しかし、作品の健康さとは裏腹な作家の人生である。青木繁は1882年久留米の生まれ。天才画家にありがちな、貧苦の上に浪費癖、その不摂生がたたっての結核。不遇のなか28歳で没した。いわば夭折の画家。死後、青木繁を埋もれさせなかったのが、同級生の画家・坂本繁二郎とコレクター石橋正二郎。3人は久留米の地縁である。

美術館の程のよさ。大き過ぎず、華美でなく、さりとて物足りなくはない。東京駅八重洲口から歩いて5分のブリジストン美術館がそうだ。2月26日午前11時ごろ、約束まで小1時間あるからと八重洲ブックセンターに向かって歩いていると、信号を止めての物々しい警備。はてどうしたのか、と聞いてみると皇后陛下がブリジストン美術館を見学して帰るところだという。開館50周年記念特集展示「コレクター石橋正二郎」(1/8~3/21)。それならば、これも何かの縁、行かずばなるまいと。美智子皇后に心から感謝しなければならない幸運であった。

ご存じ石橋正二郎は、大正期に「地下足袋」を考案して事業を拡大、更に国産の自動車タイヤの生産に乗り出し、戦後も大きく飛躍したブリジストンタイヤの創業者。

その彼のコレクションの始まりは、画家・坂本繁二郎が久留米高等小学校時代の図画の恩師であったこと。その坂本が青木の絵の散逸を恐れ、石橋に収集を依頼する。石橋は自ら絵が好きだったこともあり、これに応えた。青木繁・坂本繁二郎、その後に藤島武二とコレクションは精力的に続く。そして更に拍車がかかるのが戦争の前後。財閥解体、農地解放と続く民主化政策は、蔵の奥深くに収蔵されていた美術品を市場に大量に放出されることになった。石橋の事業は、海外の工場数箇所を失うなど大打撃を受けたが、国内の工場は戦災をまぬがれ、原料の天然ゴムも判断よく保管されていたこともあり、戦後すぐにタイヤ生産を立ちあげることが出来た。そうした幸いも手伝い、早くから美術館構想を持っていた石橋の夢は大きく前進していった。コロー、マネ、モネ、ドガ、ルノアール、ゴーガン、ピカソ、ルオー。ブリジストン美術館は昭和27年1月8日に開館した。小一時間で、世界の美術史を閲覧できる幸せ空間である。石橋は大きな裸婦像を応接間に飾るのが好みであったという。岡田三郎助のそれは確かに息を呑む。そんな風に訪れる人を驚かし、豊かな出会いを楽しんでいたのであろう。久留米にも石橋美術館がある。

はてさて世の中、かまびすしい。このブリジストンも、アメリカでのタイヤ訴訟を受けて大きく苦しんでいる。ここに来ての、佐藤工業の
経営破綻だ。ほぼ日本中の「カイシャ」がん
でいる。「カイシャ」に依存し過ぎる、そんな奴隷根性に警鐘を鳴らしているのかもしれない。

詩人・中桐雅夫はいう。「目刺しのように並んでいる良心の割引者たち、会社員ばかりの嫌な日本だ」。そこでだが、せめて眼ぐらいに栄養をやってはどうだろう、美術館に行って。

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