山田風太郎逝く。といっても決して熱心な読者ではない。書架に1冊だけ「あと千回の晩飯」。しかも文庫本。しかしこの題名に大きな衝撃を受けた。
「いろいろな兆候から、晩飯を食うのもあと千回くらいのものだろうと思う」の書き出し。軽佻浮薄、付和雷同がたちまちにわが脳を席巻。そうなのだ、これからはあと何回か、の発想で生きねばならない。わが晩飯はどうだ。果たして後悔しない晩飯か、豪華でなくとも、心からごちそうさまでしたといえる晩飯を食っているか。そんなことをいつも思わされる破目になってしまった。罪深い1冊である。というわけで、風太郎さんには申し訳ないが、昭和20年生まれ、中年男の戦後食事遍歴が、きょうのテーマである。
韓国生まれの引き揚げの身の上であれば、おっぱいに事欠き、随分とひもじい思いをしたであろうが到底記憶にあろうはずがない。小学生時代は、学校給食が少なくとも家庭のものよりもおいしく、豊かであった。そこで毎日飲む脱脂粉乳ミルクが身長170を超えさせたと信じている。食生活の曲がり角は、経済成長と庶民の所得レベルが密接に関連している。
初めての外食は新湊の中華そば店「スパロー」。お盆の墓参りの帰りに家族で、が恒例になっていた。それから、大学の帰省時に高岡の「大重亭」へと変わる。グレードアップして鉄板ステーキ。昭和39から40年に掛けての頃。ようやくにしてレストランが出来てきたのであろう。
東京に遊学して新湊からの大学受験生を世話した時、そのお礼にとその親御さんにすき焼きをご馳走になった。銀座は「スエヒロ」。すき焼きがこんなにうまいものなのだ、と感動した。忘れられない食歴のひとつだ。
このあとは自らのマネーでの選択。エポックを画した3食を紹介する。
さて何といってもベストワンは「レンガ屋」。東京銀座並木通り。わが東京勤務オフイスの眼の前。ビルの2階に小さな看板だけ。野坂昭如あこがれのレストラン。昭和50年の年末、賞与を懐に思い切って。まずメニューを見てびっくり。5000円がずらり。誘った同僚の顔が一瞬青ざめた。度胸をきめて、グラスワイン、骨付きステーキ、的矢がき。この時はじめてミディアム、レア、ウエルダムがあることを。生涯で最もうまかったステーキだ。しかしそれよりもその時出された焼き立てパンのうまいこと。給与の手取が4~5万の時に1万5千円は痛かった。が、今にして語れるのだから安いといっていい。そのレンガ屋もいまはない。
次は横浜中華街「四五六飯店」。いまはメイン通りにビルが聳え立っているが、その時は路地の小さな店。15人が入れるかどうか。冷采3品、焼豚、エビチリ。初めての中華料理の洗礼だった。
3番目はボストン。港の突堤にある高級レストラン「ピアフォ」。正装でないと入れてもらえない本格派。ここでワインというのはこんなにうまいものか、と初めて知ることに。初めてのアメリカ旅行での鮮烈な思い出だ。
はてさて、あと何回の晩飯にありつけるのであろうか。回数は多くなくていい。気持ちのいい友達と、粋な話をしながらがやはり一番。最後の晩餐は、病院食だけは何としても避けたい。冷めた冷凍食品素材のシチューでは死んでも死にきれない。息子たちよ、聞いているか。日本の医療の改善はそこから始めるべきなのだ。聞いているか、厚生大臣。
風太郎さん つまらない程度の悪い読者でごめんなさい。ご冥福を。