「シャンハイムーン」

 1934年(昭和9年)の上海にある内山書店の2階倉庫が舞台。井上ひさしが、魯迅、魯迅と同棲する許広平、内山書店店主・内山完造、その妻・みき、医師・須藤五百三、歯科医・奥田愛三の6人に日中戦争目前の様子を、分かり易く、面白く語り、演じるこまつ座である。世田谷パブリックシアター芸術監督でもある野村萬斎が井上作品として「藪原検校」「子午線の祀り」に続く三作目で、どうしても見たいと思っていたら、3月31日金沢歌劇座でやると知って出かけた。うれしいことに会場は金沢市本多町である。今は亡き北銀OBの粋人・密田靖夫邸が鈴木大拙館に隣接して佇んでいる。電話の「本多町の密田です」が懐かしい。建築家・谷口吉生の手になる禅の境地をそのままに表現した大拙館を訪ねて、偲ぶことができた。縁のありがたさを痛感する。大拙館を見ておられない人があれば、ぜひ出かけてほしい。その日も英米からの人たちが求道者のように館内を見学していた。

 さて、シャンハイムーンである。1900席は満席で、萬斎より広平演じる広末涼子が目当ての女性が多いように感じた。妻を北京の母のもとに置いて、17歳年下の教え子である広平と同棲して上海生活を始めた魯迅だが、蒋介石の国民党政府から指名手配されていた上に、ぜんそくなどに加え失語症を伴ううつ病などにも苦しんでいた。広末は本妻への嫉妬、育児、看護と忙殺される日々を、偉人である魯迅に特別に接するのではなく、正直なただひとりの女として演じるよう演出の栗山民也から求められていた。特に運動家でもある広平が本妻への嫉妬でガラガラと崩れるサマをどう演じるか。女性観客から小さな笑い声は挙がったのが印象に残った。

 魯迅の肝心なところもおさらいしておこう。魯迅は21歳の時、国費留学生として無試験かつ学費免除で仙台医専に入学する。解剖学の藤野厳九郎教授の懇切丁寧な指導は終生忘れることがなく、朱筆の入った魯迅の講義ノートは6冊現存しており、これほどまでにと感嘆せずにはおれない。しかし大学講義の一環で見せられた日露戦争の幻灯画像に、ロシアのスパイと目された中国人が打ち首にされる場面があった。これを見た魯迅は医学を断念し、文学でしか訴えられないと退学する。東京で出版事業を手掛けるが芳しくなく帰国し、北京で教師生活の傍ら中国文学の典籍研究に没頭する。しばらくして小説「狂人日記」を発表し、代表作「阿Q正伝」に結実していく。1926年日本の内政干渉に強硬に抗議する学生・市民に対し、軍隊が発砲して47名が死亡する事件が起きると、魯迅も激しく批判する。そして、上海での逃避生活となるのだが、これをサポートしたのが内山書店の夫妻と、医師の須藤、奥田の4人で、単なる友情を超えるもので、そしてともに日本人である。

 内山書店は日中の文壇サロンでもあり、谷崎潤一郎、佐藤春夫、金子光晴、林芙美子などが出入りし、座談に興じた。内山完造は大阪での丁稚奉公から始めた根っからの商売人であり、クリスチャンでもあった。利に敏いだけでなく、利をうまく回す才覚と義に熱いそれが結びついた大きな人物だったのだろう。日本軍の武力を背景に居丈だけにふるまう上海居留民団とも堂々と渡り合って、魯迅の窮地を何度も救うさまは溜飲が下がる。魯迅は1936年に55歳で急逝するが葬儀委員には宋慶齢、毛沢東、アグネス・スメドレーが名を連ねている。毛沢東は「魯迅の中国における価値は、わたしの考えでは、中国の第一等の聖人とみなされなければならない」としている。魯迅が内山書店の2階から見上げる月が好きだったことから、シャンハイムーンと名付けた。いま、アジア外交が大きく動こうとしている。

 最後に白井聡・京都精華大専任講師の警告を伝えておきたい。「輸入制限に関して安倍首相だけが名指しされた意味は決して軽くない。トランプ大統領は口先だけで俺にこびている最低の男だと思っているだろう」「敗戦と占領を機に米国を頂点とした天皇制へとつくり替えられ、日本人には<賢くなるな、疑問を持つな>と枠がはめられている。それが安倍首相に代表される対米従属国の現実。日本の市民はそれを直視すべきだ。そうでないと<安倍首相は無謬>といったウソに踊らされ続ける」。東京新聞3月30日)。

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