ワクチン接種はパソコンで可能と出た、近くの安元整形外科(富山市)で行った。記憶にあるのは、94年6月27日松本サリン事件で亡くなった安元三井さんの実家ということ。当時、彼女は信州大学医学部6年で29歳。接種してくれた医師は兄だが、もし健在なら彼女がやってくれたかもしれない。そんなこともあり、帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)著の「沙林」(新潮社)を手にした。無期懲役の林郁夫は獄中で何を思っているのか。オウム事件はまだ自分の中では整理が付いていない。ほぼ30年を経て帚木はどう見ているのか。
精神科医でもある帚木は東大―TBS―九大医学部という異色の経歴で、福岡県で開業医をやりながら執筆を続けている。わが同世代の74歳。「三たびの海峡」で描いた炭鉱での韓国人強制労働の過酷さとその復讐劇に胸を揺さぶられて以来、彼の著作を追っている。最近では、答えの出ない事態に耐える力「ネガティブ・ケイパビリティ」に考えさせられた。
本著はオウム事件の全貌を、九大医学部衛生学教授を主人公として追っている。端緒は、松本サリンを取材する記者からの問い合わせに化学兵器のサリンではないか、と即座に推論する。この教授は偶然にも事件の3か月前に「サリン―毒性と治療―」という論文を医学雑誌に投稿していた。参考にしたのは英国国防省の「化学兵器治療マニュアル」。第1次世界大戦は化学生物兵器が本格的に投入され、130万人が被災し、9万人が死亡している。これを契機に世界はこの兵器の開発に躍起になった。日本の731部隊もその渦中で生まれている。大きな疑問は、物理・化学・生物を極めた高度な頭脳が、なぜ兵器への転用に手を染めていくのか。オウムの科学技術省なる珍奇な組織にも高学歴の連中が、いとも簡単に洗脳され、殺人兵器を創り出していた。その背景に大学や企業の研究機関は予算が少ない上に、5~10年の下働きの強要がある。ところが軍隊やオームには必要な予算は用意され、研究開発も純粋に打ち込める環境が用意されている。更にいえば、こうした理系の研究者は哲学、倫理的な思考が苦手で弱く、いわばネガティブ・ケイパビリティがない。外部と隔絶された空間で、単純な論理を繰り返し吹き込まれると、簡単に洗脳されていく。
ここに教祖・麻原の病理が絡まる。根っからの暴力癖、権力志向、お山の大将気質、さらにペテンと金権崇拝だが、右眼は弱視で見えたのに盲学校に押し込められた少年時代から屈折が加わる。また盲学校という閉鎖的な空間でこそ、自己優位が発揮できたという体験が、宗教法人という格好の舞台を得て、妄想が限りなく膨らみ、殺人集団に仕立てあげていった。殺人がその人物の救済になるという詭弁が通じる。そして、人類の最終戦争なるハルマゲドンは、自分の失明の時期と一致させて計画が進む。自らの失明とハルマゲドンによる再生を一致させ、生き残るのはわが教団の信者だけだと信じ込み、また信じ込ませ、松本サリン、地下鉄サリンと突き進んでいったのではないか。自爆行為そのものだというのが、主人公の推論だ。
こんな指摘もしている。松本サリンでしっかり捜査しておれば、地下鉄サリンは防ぎ得たのではないか。警視庁を含めて県警間の連携が縦割りで、全くなされていなかった。更にいえば、令和への改元を前に拙速に13人の死刑を執行したことである。国松警察庁長官殺害未遂事件の未解決と、教団の犯行をすべて知り尽くした村井秀夫殺人事件の未解決が全貌を見えなくしてしまった。
17年のマレーシアで起こった金正男のVXによる殺人は、オウムの再現かと驚いたという。北朝鮮の非核化もそうだが、貧者の核である化学兵器の使用を禁ずる方策も考えなければならないと忠告する。約25種の化学兵器が保持されている。