地域医療をどうするのか。医師不足の解消は、療養型ベッドの切り捨てで高齢要介護難民はどこへいけばいいのか。誰しも解決策は見出せない。そんな時に“この男”は逝った。地域医療を語るときにこの男は欠かせない。
昭和20年3月6日、若い医師家族3人が信越線小諸駅に降り立った。その頃東京の上空はB29が連日飛来し、爆弾をこれでもかと落としていた。彼らは疎開したのではなかった。佐久高原の病院に外科医として赴任するためであった。しかしそこは病院とは名ばかりで、院長1人に女医1人、入院患者ゼロ、手術をする滅菌水さえなかった。青年医師は周囲の摩擦をものともせずに働いた。たちまち外来200人、入院30人となり、医学書と首っ引きで、帝王切開から中耳炎の手術まですべてをこなした。戦時下であれば、大病院に患者を送ろうにも送れない、とにかく自らこなすしかなかったのである。
この赴任には訳があった。医師は革命を信じていた。旧制松本高校時代にマルクスレーニン主義に取りつかれ、そのために浪人をしている。東京帝大医学部に入学するや共産主義青年同盟に入っている。治安維持法で二度拘禁されている。思想上の行き詰まりもあり、彼は二度転向したことになる。共産党に入って死ぬか、党から抜けて医者になるか。思いあぐねて、後者を選び、当時の教授の推薦もあり、佐久に赴いたのである。
それから60余年、佐久総合病院は屹立している。この病院の規模だが、驚いてしまった。医師が200人、ベッド数1000の日本最大級の病院というではないか。富山県立中央病院のベッド数は272であるから、その4倍ということになる。しかもJA長野厚生連の経営である。農村医療の理想を掲げ、営々と築きあげてきたのが、<この男>若月俊一である。8月22日、96歳で亡くなった。10月7日、この病院ホールで「お別れの会」が開かれた。
この佐久病院の内科医・色平哲郎が雑誌「世界」10月号で対談している。この男の生き方は面白い。東大理1(化学)に入ったが、何をしたらいいかわからなくなって中退。キャバレーのボーイなんかも経験し、アジアを放浪して医者になろうと思い、京大医学部に入り直している。若月に憧れ、先輩に「大学の医者の世界は君のような人間が務まる世界ではない。佐久へ来い」といわれてやってきた。無医村であった南相木村の診療所長を8年務めている。1300人の村で、診療所にはベッドがない。内科、小児科、老人の看取り。整形外科もやるが、手術を要する時は、佐久病院へ患者を自分の車に乗せて運ぶ。タクシー役も担っている。診察は自分の手と五感を頼るしかない。しかし普段接しているから、この人はどういう人かわかっている。痛いといっているが、どのくらいの痛さか。10のことを100にいう人か、100のことを10にいう人か。常にビクビク細心の注意を払っているという。いわゆるプライマリー・ヘルス・ケアの実践が日々行われているのだ。プライマリー・ヘルス・ケア、この用語もぜひ記憶に留めておいてほしい。
それでは佐久病院は特殊なのか。佐久病院の医師は医局に属していない。つまり医師が医局の人事を離れて、自由意志できているのだ。医局というのは、強い人事権を持った教授のもとに結束している、一種のマフィア組織。それが今、急速に崩れてきているのだから、佐久病院こそ、これからの病院の姿ということになる。医師を確保するには、働きやすい魅力ある病院、魅力ある地域をつくるしかないが、この色平のところに年間100人以上の医学部の学生が訪ねてくる。魅力といっても、最新式の医療器具や、高い給料だけではないらしいのだ。意外と、じいさん、ばあさんとゆっくり話をするのがいいという。
いまひとつ。この色平は意外な人脈を持っている。経済学者の宇沢弘文とビールを飲むらしい。医療は特殊な准公共財であり、その運営は医者が勝手にやることでもなければ、財政当局が勝手にやることでもない。被保険者が主権者として自分達で選びとらないといけない。やはり協同組合が一番いいですね。という結論らしい。高い安いという市場での解決ではなく、意識の問題だけに難しいが、やるしかない課題だ。
何はともあれ、それぞれの地域の“若月俊一”を見つけることかもしれない。
佐久総合病院
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