医学が対象とする人間とはナニモノか、だ。60兆の細胞の共生体であり、体表面は1兆の黴(かび)、菌、ダニ等などが棲みつき、口から胃には10兆の細菌が、小腸から肛門には100兆の大腸菌が生息している。体重の5%が微生物のものといわれ、大便の相当部分は大腸菌の死骸だという。こんな掴みどころのない、ぬめっとしたのが人間である。確かな医療の効き目といえば、外科手術くらいである、化学療法となると何ともいえない。薬効と副作用を天秤に掛けて、かろうじて薬物療法が成立しているように思える。あとは万事「いのち」に引き受けてもらうしかない。
「医学概論」なる講義は大阪帝国大学の澤潟久敬(おもだか・ひさゆき)によって行われたが、それを現在の医学状況を踏まえて再構築する試みに、最首悟(さいしゅ・さとる)の名前を見つけた。「思想としての医学概論」(岩波書店)で、いま「いのち」とどう向き合うか、を問うている。
ここは68~69年の東大闘争から始めなければならない。闘争は医学部問題から始まった。当時インターンという無給研修医制度があり、医学部6年を終えても学生でもなく医者でもなく、医局に属して物が言えない重苦しい雰囲気の中で過ごさなければならなかった。特に東大では、絶対天皇制のような教授が君臨し、息苦しさは際立っていた。このままではダメだ、と青年医師連合(青医連)が立ちあがったのである。東大病院内で医局長を軟禁する事件を起こした。大学側は退学を含む厳しい処分をするが、処分者の中に事件当時久留米にいたものも含まれ、冤罪だとわかったが大学側は処分を撤回しなかった。燃える医学部は抗議のスト体制にはいり、医師国家試験ボイコットに出た。全国36大学3150人の受験資格者中、受験したスト破りは405人しかいなかった。それほどに闘争は燃え盛った。あわてた政府はインターン制度を即時に廃止し、研修医制度を設けることになる。
最首は東大教養学部生物教室助手時代で、全学の助手有志とともに「助手共闘」を結成し、その中心メンバーとして全共闘運動を担った。最首の宣言である。「医者は患者を待ち構えているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれてくるかも知れない。その患者を治療して,再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質を隠す役割をになっているだけではないか」。大学当局と対立し続け、東大では定年まで27年間助手のままだった。また76年に三女・星子を得るが、重度重複障害を持っていてまったく発話しない。「生き易い者(最首)が行き難い者(星子)に身を寄せて、より生き易くなってしまう逆説」といって、星子の登場によって助けられた。健康至上主義(ヘルシズム)ヘの警鐘でもある。どんなに医学、医療が進歩発展しても、健康になれない人、治らない病気や障害を持っている人は必ず存在する。そんな人を反価値的な存在であり、生まれてきてはいけない存在であるとみなし、差別し排除していくことになりかねない。ヘルシズムと優生思想が結びつきかねないのが近代医学といっていい。
さて、概論では、この60兆の細胞の共生体である「いのち」に対して、近代医学・医療は万能ではないし、むしろ無力であり、有害である面も数多い。感染症に対する抗生物質、各種の痛みに対する鎮痛剤くらいは効果があると思えるが、それ以外は確実な診断は難しい。医療の不確実性、限界性について説明し、諦めさせるのではなく、「時に治し、しばしば支え、つねに慰む」に徹して、患者の治癒力を引き出すことからはじめよ、としている。病む人間こそ治療の主体にならなければならないとする考えでもある。
よくわからないのが「いのち」。ここまで生きながらえてきたのだから、変幻自在のわが「いのち」に殉じて、静かに全うしていきたいものだ。つくづくそう思う。
最首悟の「いのち学」
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