「終りの日々」

若い時の孤独というのはヒリヒリしたものだったが、年老いてのそれは奥底に引き込まれそうな感じがする。自由との引き換えに孤独がある、と自らにいい聞かせているが痩せ我慢の域を出ない。月刊みすずの新刊案内で、高橋たか子の「終りの日々」を見つけた。「13年7月12日、作家高橋たか子は晩年を過ごした茅ヶ崎の老人ホームで亡くなった。階段で倒れていたところを見つけられたときに息はもう無かった。外傷も見当たらず、おそらく心臓発作によるものらしい。部屋に遺された原稿用紙の束の中に、“死後、活字にするもの”と表紙に書かれた8冊があった。本書は最晩年の独り居のなかでその日その日に思ったことを綴った公刊である」。享年81歳。孤独というとなぜか、高橋たか子の孤独の深さに思い至る。夫である高橋和己を哀しいひとと呼び、がんに病む高橋を看取った後自ら小説を書き始め、フランスの小説などの翻訳にも取り組んだ。遠藤周作の勧めで、カトリックの洗礼を受け、フランスで修道女としての生活も体験している。極度の騒音恐怖症で、寝室にヤマハが楽器練習用に売り出した防音室となる巨大な箱を持ち込み、そこにひとり分の布団を敷いて眠っていた。そんなエピソードも孤独なる高橋たか子というイメージを膨らませたのかもしれない。
 こんな一節から始めよう。なぜフランスのことばかり思うのか?若い頃にフランス文学を専攻したこと(京都大学仏文科卒)。そんなわけで翻訳をいくつかしたこと。そうして、私自身、すっかり日本を捨てる気持ちで、67年フランスに行ってしまった。その上、81年フランスの或る会へ入って、修道女になった。この体験が、私を本当のキリスト者にしたのだ。特に彼女が育った京都が「大嫌いだ」といって憚らない。
 フランスと日本の神父を比較してこうもいっている。「日本の神父で、フランソワ・モーリヤックがわかる神父はいない」「フランスの神父は、自分を罪深い者だと思っているのが、暗に伝わってきてホッとする」「日本の神父からは、それが伝わってこない。自分の存在のうちのエロスの占める城を切り捨てている」「ヨーロッパでは、エロスの含まれた存在全体において生きている。神父であっても男であるから」「神の火が不純物を焼いて浄化されエロスのエネルギーの強さごと、神の火に接ぎ木される」ヨーロッパのキリスト教は、内部での絶えざる闘いによって、鍛え抜かれて強くなった。
 遠藤周作は「あんたは、ほんとうのことしか言わん人やなあ」といって、明らかに高橋たか子の宗教観にある種の恐れを抱いていた。100日間に及んだ南仏での修道女生活は、母性的で清濁あわせのむ土着的カトリックなるものを受け付けなくしたのである。
 モーリアック、ヴァレリー、ベルグソンなど最高級のフランス文学、哲学によって、未熟だった私が、わからぬまま訓練されたからだろう。私は、日本人とは(特に日本の一般女性とは)話し合うことのできない異質性を、そうとは気づかぬまま、内部から育ててきたらしい。だから、日本では孤独なのだ。
解題として綴っているのは、鈴木晶である。40年余り高橋たか子に付き添い、高橋和己の著作権も含めて管理してきて、彼女の希望通り、葬儀を四谷の聖イグナチオ教会で行い、富士霊園の「高橋和己・和子」という墓に納骨した。
 日本の中でこうした違和感を持っている人間も多いのではないだろうか。パリ通信を書き綴った藤村信や堀田善衛などが思い起こされる。
 同じくみすず書房から、山本義隆著「世界の見方の転換」全3巻が刊行される。「磁力と重力の発見」全3巻、「十六世紀文化革命」全2巻に続くものだが、全共闘世代の反骨の凄さに脱帽するしかない。

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