12月13日、中国と日本の双方で南京事件をめぐる集会が開かれた。日中戦争のさなかに起きた旧日本軍による南京事件からちょうど80年になる日である。中国のそれは南京市にある「南京大虐殺記念館」で習国家主席も参列し、約1万人が出席した。冒頭では、旧日本軍の残忍な大虐殺で30万人の同胞が殺されたと中国側の主張を改めて強調した。一方、日本では「南京戦の真実を追求する会」が東京都内で南京攻略戦をテーマに開かれた。これを報じた産経新聞からの引用であるが、日本をおとしめる中国の政治宣伝に対抗していく上で「外務省による南京事件の既成事実化は看過できない」と訴えた。集会では自民党の稲田朋美元防衛相が「日本の名誉を守るとは、いわれなき非難や事実と違うことに断固として反論することだ」と述べ、「国益を守ることに政治家としての軸足を置いていきたい」と語った。また、山田宏参院議員が「内閣に歴史情報室を作って、(中国が南京事件の証拠だとする)資料の一つ一つに反証すべきだ」と主張した。
いい機会だと思って、この南京事件を中国人の視点から描いた堀田善衛の「時間」(岩波現代文庫)を読んでみた。1945年5月に武田泰淳と南京を旅した時に、いつかは書かなければと予感したといい、53年から雑誌に連載していった。加害者である日本人が被害者である中国人の眼で、この事件を捉えた堀田の知的な腕力を感じさせる。基本認識はこうである。危機を察した蒋介石は漢口に逃れ、南京城を包囲して満を持してなだれ込んだ。この少し前の上海事件では多くの死傷者を出し、その復讐戦との意識も強かった。「日本軍は中国軍の敗残兵ばかりでなく、一般市民・女性や子供までを見さかいなく襲い、放火、略奪、婦女暴行などを数週間も続けたのであった。中国軍民の犠牲者は数万とするものから43万とする説もあった。日本国内ではこの大虐殺事件のことは、国民に秘匿されていた。長きにわたる日本の歴史の中でもまれにみる恥辱であった」。主人公・陳英諦の日記という形で、妻や子や従妹が犯され狂死していく。戦後間もなくの堀田の小説描写だが、これを否定しさることができないだろう。
1937年盧溝橋に始まる日中戦争だが、どうも41年の日米戦に隠れてしまって、日本が中国に負けたという実感が持てないでいる。その後の日中戦争も大きく変質し、太平洋戦争を遂行するために中国から資源と食料を収奪し、それに抵抗する中国民衆を皆殺しにするというものになっていた。「殺、掠、姦」「三光作戦」を死語にしてはならない。
この国に自虐史観批判なるものが登場し、「南京大虐殺はなかった」「慰安婦問題は国内外反日勢力の陰謀」「教育勅語を教材として用いることまでは否定されない」という日本版歴史修正主義が臆面もなく語られ出したのは90年代に入ってからだ。安倍政権はこれに拍車をかけようとしている。来年の12月13日は南京と東京で、南京事件の共同討論集会を開いたらどうだろうか。安倍・稲田コンビが「南京大虐殺記念館」の檀上で、1万人の中国民衆に「南京事件は日本を悪者にするために連合国によってでっちあげられたものです」と語るのである。地球を俯瞰する外交というなら、中国、韓国へも足を運ぶべきだ。
そういえば、わが父は1937年7月12日に盧溝橋事件勃発を受けて、召集令状が届き、京城の工兵第20連隊に入隊している。日中戦の先兵でもあるのだが、同年には40万人の日本兵が、39年末には85万人以上の日本兵が中国大陸に狩り出された。食料不足と強行軍で体力は消耗し、飢餓すれすれの戦いであった。大本営は兵隊の命など何とも思っていなかった。