年度末というこの季節は、追い詰められる季節でもある。昨年10月に警備保障会社の営業職を得た50歳を過ぎた男が6ヶ月の雇用任期を経て、契約更新を受けなかった。正確には、自分の気持ちとして受け入れられなかった。この半年で表彰を受けるまでの実績を挙げたが、その実績の5割増しのノルマ数字が示されたのである。やっぱり使い捨ての人間だったかと今更ながら思い知らされて、我慢ができなかった。またゼロからの出発となるが、自分の判断に迷いは見せていない。
また、緊急雇用対策で1年間の仕事を得ていた若者も、期限切れということで元の木阿弥の無職となった。制度にすがった働き方では職場でも本格的な戦力と認めないので、次につながるような仕事を任せなくなる。今度は自分で仕事を創り出したいと考えている。
若いうちから老後を案じ、まわりの空気を読んで自ら縛るように生きる人生なんて生きているといえんだろう、もっと好きに生きてみたらどうだ。そんなことを気休めみたいにいっていたが、こんな現実の前に発言責任があるように思えてきた。68歳にして持って生まれた放言癖がいわせたことと逃げるわけにはいかない。といって出しゃばって「仕事のない奴、俺んとこへ来い」といって来るほど程度の悪い人間でもないので、さりげないサポートをしようという決意表明でもある。
「拡大成長の呪縛をどう断ち切るか」(世界3月号)は悩める老人に程よい示唆を与えてくれる。地球資源、人的資源の決定的限界に向き合うというテーマで、田中洋子・筑波大学大学院教授と広井良典・千葉大教授が対談しているのだが、「過剰による貧困」という視点だ。豊かさや成長を支える要因は、競争に打ち克つための企業努力、シュンペーター的なイノベーションとしての技術開発だが想像以上に進み、工業化は行き着ける先のもっと先まで進んでいる。もう基幹的な生産部分で人間の労働力はほとんど必要としないレベルで、残っている仕事というのは気が狂うほどの単純労働だけとなっている。生産性が最高度に上がった社会というのは失業者であふれかえる社会ということになる。少人数の労働で多くの生産を上げられ、すべての人の需要が満たされるということは、少人数の人だけに富が集中し、そこには当然格差が広がることになる。1%と99%ということだ。
こうした社会を前提とするならば、社会全体の働き方を視野に入れて、社会保障や所得の再分配を政策として取り入れていかなければならない。ワークシェアは当然だが、雇用をつくるために、手作業をわざと増やして仕事をつくり、あえて機械による効率化や大量生産しないということだっていい。特にケアや対人サービスのように機械で置き換えることのできない労働なんかはこれにあたる。それも漫然とするのではなく、農業だけではない「ケアの6次産業化」という発想が必要になってくる。
いま在宅医療を行う医療法人の手伝いをしているが、超高齢化社会となって病院での医療から地域で支える医療への大きな転換点に立っている。いわばいろんな職種の人材が必要になっているのだ。それをコーディネートしていく人材も然り、である。同業に話を聞くと、同様にこの業界に染まらない清新で豊かな感性を持つ人材の必要性を挙げる。
ある異業種交流の場で、こんな男が現れた。東京大学医学部を出ているが、医師免許を取らずに金融不動産業界に紛れ込み、リーマンショックで挫折?し、富山へUターンした。45歳だが空き家を求め、ひとり住まいで明るくふるまっている。昨年末に「不動産のしくみがわかる本」を上梓し、講演に呼ばれることもある。ひとつ仕事を頼んでみたが、とにかく仕事が速く、ツボをはずさない。俺のそばから離れるな、といっている。
さて、若者だけではない無業者のみなさん、世の中捨てたものではない、求めよさらば与えられん、だ。自分の尊厳を掲げつつ、肩寄せ合って一緒にこの世を楽しみつつ働いていこう!もちろん群れずに、狎れずに、程よい距離で。アベノミクスに対抗すべく、やけくそでいっているのではない。
求めよ、さらば与えられん。