松村外次郎と熊谷守一

 圧倒的な存在感でブロンズ像「タバコ」は迫ってくる。彫刻家・松村外次郎の1942年の作品で戦争が差し迫ってくる中で、作成された。筋骨隆々の兵士が両手にした銃をブランコにして、裸の幼子がぶらさがっている。青年はタバコを咥え、不敵な面構えで何かに挑んでいるようだ。富山・庄川上流の水公園の奥まったところに松村外次郎記念庄川美術館がある。両親を看取ってもらった荒川龍夫医師がケアポート庄川の施設長なので、お世話になった後も度々訪ねている。その時間調整に格好の場所がこの美術館で、まっすぐ「タバコ」の前に行き、眺めているのだが、作品はその都度話しかけてくる。すさんだ気持ちを直し、回復させてくれる格好の癒し時間でもある。

 01年(明治34年)に木彫の街・井波で生まれた外次郎は早くから彫刻家を意識し、高岡工芸高校木工科にはいる。高岡工芸の存在のありがたさを思わずにおれない。その後上京して、平櫛田中と並ぶ吉田白嶺の内弟子となり研鑽を積んでから、東京美術学校彫刻科に入学した。在学中に二科展で数々入賞し、卒業後パリに留学するのだが、1931年から2年間のパリはどうだったのか、古典の石彫を学んだというが興味は尽きない。同じ年に林芙美子が放浪記の印税を手にパリにわたっている。パリで600億円を散財したあのバロン薩摩こと薩摩治郎八もまだカネは尽きかけていないので、日本館で藤田嗣治なんかと交友していたのではないかと想像する。確実に古代ギリシャなどの作風が松次郎作品の背後に見て取れる。パリ効果であろう。人間とは何か、を研ぎ澄ました眼でとらえている。

 「タバコ」の横に展示されているのが、大きな木彫の「半円柱の結縁」だが、男女がまぐ合う姿が実物大で彫られている。58歳の作品だが、生命力の根源なのだと悟り切った潔さを感じる。「彫刻というのは、すべて感動の表現だから、よけいな飾り方は不必要で、避けなけりゃいけないよ」。89歳で亡くなるのだが、直前まで「北前」の制作にあたっていた。

 こんな松村の交友だが、類は類を呼ぶというか、20年も先輩である熊谷守一とは馬があった。彼らにとっての時間というのは、むやみに語り合うことではない。日永一日、縁側で碁を打って、うんうんとうなりながら、勝ち負けにこだわるわけでもなく、そのうちそれではさよなら、となる。ある日、帰り際に雨が降ってきて「傘がない」というと、守一はこれを着ていけといって柱に掛けてあった古い木綿の合羽を、藤田嗣治からものだと手渡してくれた。まるで股旅者のような格好で帰宅したという。

 この二人の展覧会が期せずして開催される。12月2日から1月21日「松村外次郎展」於・庄川美術館。12月1日から3月21日「熊谷守一展」東京・国立近代美術館。見逃してほしくない。

 最初に松村作次郎作品に出合ったのは、大山町のインテック研修センターがオープンした時で入口に木彫の「立山縁起」が置かれていた。亡き金岡幸二社長・コレクションの意外な広がりを感じた。入手の経緯は知らないが、今にして思えばあの時に聞いておきたかったと悔しい思いもする。

 11月16日久しぶりに庄川を訪ねた。10年年長の荒川医師の前では、老いの弱音を吐くわけにいかず聞き役に回るのだが、札幌に住む親友の藤木医師を失った痛恨の思いを吐露されて、粛然とした。午後に砺波法人会の講演会に出向き、10数年ぶりに講師の福岡政行さんに会ったのだが、アベ批判を口にした途端にテレビ局から出入り禁止になったという。官邸で目を光らす萩生田取り巻き連の成り下がった所業は政治を貶めるだけである。そう長くはないだろうし、こんなレベルの政治を続けさせるわけにはいかないと意気軒高であった。

 

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