京都残影

 京都東山の浄土宗総本山・知恩院の阿弥陀堂にひとり座す機会を得た。阿弥陀像を眺めていると、祖母、父、母の面影が重なるように見えて、涙が零れそうになった。3人は浄土宗門徒として、五重相伝を新湊の末寺・曼陀羅寺で勤め上げ、この知恩院に報告詣りとして足を運んでいる。その荘厳さを耳にして育っているので、仏の御手に包まれるという法悦とはかくや、という思いであった。ご存知だと思うが、徳川幕府の庇護のもと、二条城を見下ろすような伽藍となっている。
 思い立って6月4日、京都に出向いた。乗車券を巡ってJR西日本に苦言を呈した。富山駅からの関西周遊は17490円であるが、金沢駅だとサンダーバード往復割引で10700円がある。北陸新幹線が開通して関西圏へは金沢乗り換えとなり、不便この上ない。富山―金沢間の新幹線乗車がこの差7000円となり、それが負担できなければ、時間にして往復2時間以上要する在来線あいの風とやま鉄道を利用すればいい、という理屈だ。新幹線は大阪開通まで、金沢以東の利用者に不利益をかけないという発想がない。憤懣やるかたないが関西周遊券を買うしかなかった。
 それはさておき、今回の京都行は嵯峨嵐山に居を構える友人の誘いがきっかけで、仕事の関係で午後3時半に待ち合わせとなった。それまでの時間を知恩院と定めたのだが正解だった。記憶はあいまいで、八坂神社円山公園を下ると知恩院と思っていたが、逆で上っている。知恩院境内の前は観光バスでごった返しており、中国語が飛び交っている。中学生の修学旅行と思われる7~8人の集団も目立った。バスの車窓から、民進党を窮地に追い込んだ前原誠司のポスターが、終わった人のように見えたのも京都ならでは、だ。
 嵯峨嵐山に向かうのは山陰線である。01年の暮れに、同じ路線で亀岡駅に向かった記憶がある。筒井紘一・裏千家今日庵文庫長に格調高い茶会をやってほしいというお願いだった。亀岡は大本教の聖地でもあり、それをモデルにした高橋和己の「邪宗門」を思い出し、歩き回った。古稀を過ぎると記憶を思い起こすだけで、新しい記憶を重ねるとはいかない。
 さて、嵐山で迎えてくれたのは矢野忠・明治国際医療大学学長である。学長といっても、新湊小6年2組同期であるから気が置けない。旧大学名は明治鍼灸大学であったが、専門学校でも資格が取れることもあって、鍼灸師が余る状況となり、大学運営が難しくなっている。再度の就任で、その重責に負けず、気楽にやったらいいと励ます、お節介訪問でもある。その嵯峨野竹林の道を小学校時代の思い出を語りながら歩いた。昭和初期の名優・大河内傳次が映画出演料の大半をつぎ込んだという大河内山荘も傍らに見えてきて、北劇、新劇、日吉館とあの新湊に映画館3館もあった娯楽映画全盛期を思い起こす。渡月橋を渡り、著名な日本料理の名店・吉兆を通り過ぎて、銭湯に浸かり、嵯峨嵐山駅前の繁盛居酒屋「いのうえ」に繰り出した。鯛の荒煮、長茄子などのほっこり豪快な絶品おばんざいを堪能し、語り尽くし、焼酎を重ねた。ありがたし。
 翌日の大阪は二日酔い気味であったが、在日の友人から叱咤された。南北朝鮮が大きく動こうとしているのに、まるでブレーキを踏み、ひょっとして朝鮮戦争の再来を待ち望むような日本政治の錯誤感覚は大きなしっぺ返しとなってくるだろう。北朝鮮には経済協力ではなく、戦後賠償をしなければならない立場であることを忘れてはならない。日本の戦後復興は朝鮮戦争の民族悲劇で賄われたことも。

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