小さな医療法人だが、カネのやり繰りに本当にこれでいいのかと自問する日々だ。自らその恩恵を受けてきた経済成長神話が捨て切れない。支出は伸び続ける、それに追い越されないためには収入も伸ばし続けるしかないとする強迫観念でもある。
そんな老人を刺激する2冊に出会った。「俺に似たひと」(医学書院)、「小商いのすすめ」(ミシマ社)。いずれも著者は平川克美で、5歳年下の62歳である。リナックスカフェなどの企業経営者であり、文筆を余業としている。時代認識、問題意識が同じで、しかも思考回路がよく似ている。ちょっと粘液質なところは、早稲田理工卒の影響であろう。ほとんど授業をさぼり、ある種の活動に没頭していたのは間違いない。
肝心なことから始めよう。経済成長は社会としての成長を約束するものではない。むしろ闇雲に成長を目指すグローバル資本がローカルを破壊していくのは間違いない。支出に追いつく収入を確保しようとする拡大均衡は捨て去れ、と論じている。60年代の所得倍増計画が唯一拡大均衡に成功したのは、日本が若く貧しかったからで、成熟し脂肪がびっしり張り付いた今の日本には縮小均衡しかあり得ない。といって短絡的に昔の生活に戻ればいいという論ではない。
彼の結論だが、「いま・ここ」に責任を持とうという。資本主義の行き着いたカネ万能の「いま・ここ」に生まれたことに何の責任もないことは明白だが、そうであってもここに留まって責任を持つことでしか世の中回っていかないという危機感でもある。損な役回りだが、ある種の固い確信犯に近い存在を指している。老人流にいえば、黒澤明の「七人の侍」、山本周五郎の「いのちぼうにふろう」を想像したい。そんな男達、女達が始めるのが小商いということになる。
小商いは、存続することが拡大することに優先する。そして、何よりも人間というものはどんなものかわかって経営する、これに尽きるということだ。ソニー創業の井深大の設立趣意書はまさに小商い宣言であったという。また平川が育った大田区にある京浜精密工業を挙げ、経験を積んだ働く者が暗黙知を若者に伝承させる仕組みを作り上げ、どうしてもほしい製品を小生産し、企業存続の秘伝を紹介している。この本を出版したミシマ社もそうで、日販やトーハンといった取次店を通さずに、直接書店という読者に近いところに配本している。本が好きでたまらないスタッフが揃ってもいるのだが、そんな熱意が小商いネットワークを作り出しているのだ。自分が売りたい商品を、自分が売りたい人に届けたいという送り手と受け手を直接的につないでいくのが、小商いの基礎といっていい。
その小商いがまず動き出し、そこから世の中が起動する。損な役回りを引き受けた、いわば親達や大人を見て、少しはお返しをということで若者たちが動きだすかもしれないのだ。もちろんそんな事を期待しているわけではないが、そこに賭けるしか方策が見当たらない。強制で人間は動かせない。
平川の「俺に似たひと」は父親の介護日記であるが、老いの厳しい現実を見直すきっかけになった。「成長は、生まれた時が平等だった個々人がばらけていくプロセスであり、老いとは、そのばらけた個々人が、ふたたび死という絶対的な平等へ戻っていくプロセスなのだ」と述懐している。そこから到達した論理でもある。
誰にも逃れられない死を引き受けて、小商いネタを模索し、見つからない場合は小商い周辺でサポート役に徹して生きていく。小商いに原発は必要ないし、フクシマ復興もまた、小商いがスタート台である。また、余業として蕎麦打ち老人になっても当然許される。
「小商いのすすめ」
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