人生の実力者

うしろすがたのしぐれてゆくか
 山頭火の句である。先日、現職時代に権力をほしいままにした男のうしろ姿をみた。肩を落とし、誰も声を掛けない。年齢の割に足取りが覚束ない。自分の不都合なことは、すべて他人に所為にして、いつも小さな世界で威張り散らしていた。そんな末路を見る時、その男のために、心を病んだ若者はいまどうしているだろうかと思う。一度対面させたら、この男は若者の前でどんな言葉を発するのだろうか。
 そんな思いを巡らせている時、柏木哲夫のエッセイに出会った。北陸中日新聞1月19日夕刊「紙つぶて」。精神科医とホスピス医としての臨床経験から、多くの『人生の実力者』に会ってきたという。彼のいう「人生の実力」定義は、「どのような状況におかれても、その状況を幸せに思える力」だ。物事が順調に進んでいる時には、人の底力は見えにくい。つらい、悲しい、やるせない状況、すなわち自分にとって不都合な状況になった時、どのような態度でその状況に対処できるかで、その人の「人生の実力」が決まる。その中に,生きている証しを見ることができ、その状況を幸せと思えるかどうかでその人の実力が決まる。人生の達人はその実力を持っている。幸せからは程遠い人生の終わりの時であっても「幸せな人生でした」といえるかどうか、だ。
 淀川キリスト教病院で、ホスピスの実践をし、関連の出版も多かった。富山県立中央病院に公立病院として初めてターミナルケア病棟ができるということで、読んでいた。その後大阪大学に勤務と思っていたら、名古屋の金城学院大学長に転じていた。
 学校、企業という一種逃げ場のない閉鎖空間の息苦しさに悩む若者が多い。これを中間集団全体主義ともいうらしい。批判の声が届かないことをいいことに、ますます君臨するようになる。そういえば、日本の年間自殺者が3万人を超えたのが1998年。いっこうに減ることはない。未遂者はその10倍になるともいうから30万人がその予備軍。これを長期の不況にのみ要因を求めるのは、事態の深刻さを見逃すことにつながりかねない。グローバリズムを掲げ、自己責任と空騒ぎをしているうちに、日本の社会は何か大きなものを失ってしまったようだ。自殺者の共通の心理は「孤独感」。心の問題は、行政や制度の改善では解決できない。あまりに個人的なるがゆえに、歯がたたない。おばあさんの懐に似た“優しい共同体”こそ必要なのだ。ちょっと元気が出る、声を掛けてもらえるだけでほっとする。そんな空間、間柄の再構築こそ最大の特効薬。そして、これこそ誰に求めることなく、自分で今日から実践できることなのだ。
 恐らく冒頭に挙げたその男は若者に、「そんなこともあったかな」と罪の意識のかけらもなくいい放つのではないか。ひょっとして、飼い犬に噛まれてしまったと権力維持に失敗したことをクドクドと。こんな薄っぺらな男にと若者は嘆くだろう。しかし、こうした男の出現を防ぐ手立ては、なかなかに難しい。一度組織がそうなると、そのDNAはこびりついてしまう。第2、第3の<その男チルドレン>が出現する。また大きな社会状況も、それを許していることも忘れてはならない。こちらが先に壊れてしまう時間の問題もある。さすれば次善の策で、自己改造だ。
 自己防衛として「人生の実力者」を目指して、少しずつ日々実力を養成することである。そして、その実力の上に自らが“優しい共同体”となること。それは「自分にも尊厳、他人にも尊厳」と御まじないを掛けるだけでいい、と思うがどうか。
 さて、ターミナルケアといえば、わが老犬が2日前から、あの特効薬ともいうべき肉を口にしなくなった。動物は他人に弱みを見せないという。弱肉強食社会は弱みを見せたら,その時点で食べられてしまう危険があるからだ。ということは、人間の社会がどうも動物の社会に近づいているのかもしれない。

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