飲み友達との別れ際、愚息との電話を切る時、ほぼ常套言で口をついて出るのが「じゃあな」である。恐らく、この世とおさらばする時も、これで済むだろうと思っている。どんな問題でもじっくり話をする習慣を身につけてこなかったのだ。思い起こせばこんな記憶がある。北池袋の下宿に深夜、女性問題で悩む親友が、酒の勢いを借りて押しかけてきた時だ。「おい、あんまりしゃべるな。薄っぺらなものになってしまうぞ」とさえぎって、全く別の話に切り替えて、安いサントリーレッドを喉に押し流した。具体的で直截な話は、意外と説得力を持たない。世情に通じていないこともあるのだろうが、男特有のはにかみ、照れ性にも原因がある。意外と、別れた後にそういえばと思い起こされる余白、余韻、余情に多くのヒントが込められている。そんな気がしてならない。
大切なことはすべて酒場から学んだという詩人・田村隆一の連載エッセイをまとめた「自伝からはじまる70章」(思潮社・詩の森文庫)がある。昭和15年ごろの新宿界隈。酒神はそこに降りたもうたのであろう。喫茶「ノヴァ」が2階で、階下が西洋居酒屋「ナルシス」。たまり場である。もちろん「ツケトイテ」で帰ることができる。無知という強さと未成年を武器に、文学芸術を語り、「諸君、希望するな、たえず絶望を持て!」などと奇声を発する酒場である。草野心平が出している店が「火の車」。心平はどこかに飲みにいってしまって、かみさんだけがポツンとすわっている。ビールというと、おかみさんが手を出す。まず、ビール代を取って、それから酒屋へ駆け出していった、という逸話だ。
こんなくだりがある。ぼくより3~4歳上の大学生で、ときに背広を着た富山訛りの青年がやってきたが、戦後になって、彼は慶応仏文の学生で、「孤独の広場」を書いた堀田善衛だということが、やっと分かった。そう堀田もここの常連だったのである。その店の雰囲気が知りたければ、「若き日の詩人たちの肖像」を一読せよ、と。とにかくハチャメチャで面白く、若者の客気があふれていた。しかしその若者達が、背にしていたのは厳しい死の予感である。
ここでも「じゃあな」が出てくる。学生だけに許されていた徴兵猶予が即時停止になった。43年の学徒出陣であるが、その仲間達に令状が次々にやってくる。「じゃあな」。これが彼らとの別れの言葉だった。「秋風や 言葉つたなくわかれけり」。これが田村の発した唯一の定型詩。
「若き日の・・・」の締めくくりに、堀田善衛にきた令状をそのまま載せている。臨時召集令状、到着日時 昭和18年11月15日午後1時、到着地 富山市五福歩兵第35連隊。臨時たあ何だ、人を招集しておいて臨時もないもんだ、無礼千万な、と思うのであるが、あまり腹も立たなかった、とある。
いまひとつ、この言の背後にあるものを挙げておきたい。なれる、を拒否しているのだ。狎れる、馴れる、慣れる、狃れる、眤れる、褻れる。どれもこれもなれなれしい漢字。というのが茨木のり子。「じゃあな」には、なれないぞ、の意志も込めている。
はてさて、駄文つづりも400回を超えてしまった。ほぼ8年、我ながらあきれるというより、執着する粘液的な性格もひそんでいるのだと、嫌な気分だ。淡白、恬淡、含羞を自称し、そこにこそわが美学があるとも思っているのに、なぜだとなる。不甲斐ないのである。別の見方からすると、根っからの貧乏性なのだ。堀田善衛夫人は、午前中どんなに電話が鳴ろうと出なかったという話だ。静かな午前を他人に邪魔されてたまるか、ということらしい。ところが、60過ぎの老人は、ちょっと電話が鳴ろうものなら、2階から転げ落ちるように受話器に向かって駆け出している。この彼我の差をどうみるか。これは間違いなく貴賎の差だ。あわてない、他人の思惑に左右されない、毅然と自分の領分を守るなどなど、ほど遠い資質ばかりだ。今更「貴」なるものは身に付かない、身に付くはずがない。じゃあな。
「じゃあな」
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