「この世界の片隅に」

混沌、錯綜した情報が駆け巡る中で、新年という区切りで整理しようと思うが、衰退した脳は休止したままである。妙に記憶に残るのはトルコでソ連大使を銃殺したテロリストの叫び声「アレッポを忘れるな!シリアを忘れるな!」である。朝日新聞天声人語で取り上げた「商人たちの共和国―世界最古のスーク、アレッポ」(藤原書店)がとても気になっていた。3日、一家恒例の宇奈月温泉からの帰途、富山・豊田にある在庫書籍数北陸一を誇る文苑堂書店に立ち寄ると書架に納まっているではないか。
 著者は中東現代史が専門の黒田美代子駒沢女子大学教授だが67年、アレッポ大学でスークと呼ばれる商業都市での調査を行って、「すべての道はアレッポに通ず」とスークの歴史、構成、商人たちを活写した。著者は11年亡くなっていて、今回の新版巻頭は夫君の黒田壽郎が寄稿している。「支援国イスラエル擁護のための、アラブ勢力の徹底的破壊こそが米国の戦略の根幹であり、イラクの攪乱のすぐ後で新たにターゲットとされたのが、まさにシリアに他ならない。現在のシリアにおける騒乱は、〈内戦〉ではなく、〈外圧〉によって惹起されたものなのである」といい切っている。誰がこんな破壊をしたのかという怒りであり、中東混乱の根っこにはいつもイスラエルがあることを忘れてはならない。日本にいると、アサド政権の非道ぶりとロシアの空爆だけがこびりつくが間違ってはならない。
 オバマ米政権は入植活動停止を求めるイスラエル非難の国連安保理決議案を棄権し、パレスチナとの共存を模索する政策だったが、トランプは拒否権を発動すべきだとツイッターでつぶやいた。EUを含めた混乱からは目が離せない。そして気がかりになるのが、日本もイスラエルのようになるのではないか、という悪夢である。やられたらやり返せ、やられる前にやってしまえ、ハリネズミのように武装して、いつでも核武装もできる。アメリカのアジア戦略の先兵になっている姿である。究極の日米同盟強化といっていい。米大統領が日本の首相と並んで靖国参拝し、米国のために身命のかけた日本国防軍の兵士を慰霊する。日本の女性防衛大臣が感慨深そうにこの情景を見守っている構図だ。トランプ政権への対処を誤ってはならない。
 これではとてもおさまらないと気分直しに「この世界の片隅に」を鑑賞する。主人公の絵を描くことの大好きな北条すずに、ちょっとぼ~としている孫娘を重ねて観ることができた。双葉社が発行する漫画アクションに連載されたこうの史代が描いた同名の漫画が原作である。戦時下、見知らぬ土地に18歳で嫁いだすずの毎日の営みを丹念に綴っている。「生きるっていうことだけで涙がぼろぼろあふれてくる、素敵な作品です」と舞台挨拶した女優のんの言葉に尽きている。嫁いだ呉の町は軍港である。大和も、武蔵もここが拠点であった。港湾の様子を描いていたすずは、憲兵に間諜の疑いを掛けられる。家のものは震え上がるが、今回は見逃してやると憲兵が帰ったあとで、すずがスパイだと、こんなぼーとしているスパイなどいるわけがないと家中で大笑いする。監督脚本の片淵須直の思い入れかもしれない。原作のこうのは、片淵が監督した「名犬ラッシー」を見ていて、いつかはこんな作品と思い描いていたので、アニメ化は願ってもないことだった。6年の歳月を経ての完成だが、制作資金調達のめどは直前まで立っていなかった。決め手の提案となったのがクラウドファンディング。そのためにパイロットフイルムを作り、出資者に作品のイメージを訴えた。ギリギリの15年3月に200万円の目標で始めたが、開始から8日と15時間で目標額を突破し、最終的には全国から3374人、3912万円もの支援を集めた。広島ローカルの底力といっていい。
 作品のエンドロールだが、呉への猛爆撃の中ですずは義理の姪の手を引いて歩いていて、時限爆弾が爆発する。その女の子は死に、すずは手を引いていた右手を失う。叔母からは責められて、その上に家事さえ覚束なくなる窮地に追いやられる。それでも左手でできる作業を必死で続ける。それでも日常を続けるしかない。片隅で生きる人間は、「涙をぬぐって働こう」(三好達治)しかないのである。そしてすず夫婦は道端で腹を空かせて、泣きじゃくる戦争孤児を家に連れ帰る。すずの右手になる希望の孤児である。
 さて、片隅で生きるしかない無名の老人にとって、この情勢をどう生きるかが問われている。それほど生きる時間が残されていない、認知症まがいであるが何とか判断ができる能力が残されている、そして鰥夫となって20年、もう失うものなどない。この3条件はどう生かすかである。そろそろおとなしくしたらどうかの声も聞こえるのだが、どうしたものか。酒と女におぼれる絶望を装う自滅願望も少しは残っている。
 無理強いはしないが、この1年もお付き合いください。

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