遠く離れているが、住んでみろといわれても、とても住めないなと思っている国がある。イスラエルだ。世界で最も緊張の強いられる国家であることは間違いない。1948年の国連決議によって作られた。その直後から戦乱にまみれながら今日まで、一度も平和の休息を得ていない。やられたらその倍やり返す。やられる前にやってしまえ。その冷徹で徹底した国家を存続させる論理は、やわな日本人では身が持たない。まるで針ねずみのようだ。わが平和ぼけ日本の対極にある。そしてまたまた理解できないのが、イスラエルの今回の首相選挙。指導者たちの駆け引きだ。
昨年7月のキャンプデービット以来今年1月のエジプト会談まで、米大統領、任期最後の賭けのような中東和平交渉。クリントンを挟んで、バラク首相とアラファト議長が対峙した。バラクは成功させるべく、占領地の95%返還、ユダヤ人入植地の一部撤退、更に聖地エルサレムの分割とパレスチナ政府への主権の一部委譲までとことん譲歩の提案をした。それは不可能といわれるまでのタブーにも踏み込んでいる。そしてついに歴史的和解なるかと思われた。しかし、PLOのアラファトははねつけた。ここまで譲歩案を出させながら拒否するということは、アルファトはバラクの政治生命をも絶ってしまったということだ。こうした状況をうけての首相選挙。バラク首相に対抗したのがシャロン氏。シャロンは1982年にレバノンからPLOを追い出し、2000年にはイスラムの聖地神殿の丘に強行訪問しパレスチナ人を挑発した男。いわば最強硬武闘派である。結果は明白。シャロンの地滑り的圧勝で終わった。イスラエル市民はバラクの譲歩し過ぎにノーと突きつけた。これはわかる。しかし低得票率はアラブ系イスラエル市民の棄権に負うところが多く、シャロン当選を黙認した形となった。人口はユダヤ人約200万人、アラブ他非ユダヤ人約25万人の225万人。アルファトはこの強硬派シャロンを選んだといっていい。いわばパレスチナ人とイスラエル軍の当分は続く衝突とテロルの方を選んだのである。実際シャロンに対して和平交渉をする何らの糸口もないのである。和平を唱えながらパレスチナを迫害するかもしれないバラクより、和平など振りかざさず屈服と戦争を突きつけるシャロンの方がやりやすいとすれば、逆説であり、倒錯としかいえない。アラファトは歴史に名をとどめる機会を失ったのは間違いない。もちろんパレスチナ解放機構の内部の突き上げも激しかったと思われる。想像できないいやらしい打算、利権もあったかもしれない。しかし、やはりおかしい。ここはやはり勇気と決断で和平に踏み出すべきであった。確かに犠牲もあるだろう。一時的な汚名も浴びせられるだろう。しかしいつか歴史においてよみがえる日がやってくる。和平ならすぐに飛びつく単細胞日本人からすれば、惜しまれてならない。
ところで日本の外交というのはどうなっているのだろうか。外交機密費で身内だけでの飲み食いの「社交外交」だけとは思いたくないが。バブル期にさる地銀がニューヨークに支店を開設した時、その地方の首長、議員の接待、自行の役員の接待がすべてであったと聞いた。おそらくそんなものだろう。
志を失ってしまった国家、企業に、こんな馬鹿げたことが横行していても不思議ではない。情けない。
更に不思議なことにシャロン連立内閣に、バラクが国防相として入閣している。厳しい対立の論理と、現実的なプラグマティズム(実用主義)。これほどの意志があってこそ、流浪の民族は生き残っていけたのであろう。
すぐに不倶戴天とか、共に席を同じゅうせずとか、意趣返しのために敵国にさえ自らを売ってしまう小ささ。そこから脱皮せねばなるまい。