強制。そんな教育はいらない

誰しも教師というものに一度は憧れる。「二十四の瞳」の大石先生ではないが、この先生に出会えてよかったと思う先生がいるからだろう。そんな先生を持てなかった人は不幸である。子どもたちもいい教師に出会えたらいいな、は親の切なる思いだ。しかしいま、その教師たちが追い込まれている。窒息寸前といっていい状態かもしれない。

精神科医で京都女子大学の野田正彰教授のレポート「させられる教育 途絶する教師」を読むと慄然としてくる。とりわけ、日の丸と君が代の強制がどれだけ教師のこころを抑圧し、荒廃させているかだ。1999年2月、卒業式を目前にした広島県世羅高校の石川校長が自殺に追い込まれたのは記憶に新しい。しかしこの悲劇を逆手にとるように、同年8月9日に国旗・国歌法が成立する。まるでマジックを見るような感じであった。悪智恵の最たるものだろう。この問題では、悩むな、考えるな、討論するな、法律で決めてやるから安心しろ。教組や解放同盟などの攻撃からから守ってやる。そうすれば、自殺などしなくてもよくなるという理屈だ。そして法制化にあたり「強制したり、義務化したりはしない」と小淵首相、野中官房長官は明言した。しかし、悲しいかな。これからが出番と登場してくる輩が必ずいる。小役人根性まるだしの文部省、教育委員会、校長の一部に。われ先に入学、卒業式での国旗、国歌の100%を競う忠誠心競争。これも権力にとっては計算済みのこと。石川校長は同和教育と「君が代」の歌詞との整合性に悩み、従来通り卒業式では歌わせない考えであった。教組や解放同盟からの申し入れがあったことも事実である。そしてこのことについて、校長会から教育長に「格別のご支援をいただき」「考え方を示していただきたい」と要望書を提出している。この卑屈なものいいから、教育長と校長会との身分関係はわかるというもの。その時対応したのが、文部省特殊教育課長から広島県教育長に転じた辰野裕一。43歳。血気にはやる代官気取りで「これが最後の職務命令です」と冷たく脅す。こうした連中は同等の土俵には決して乗らない。そして各校長には「毎日職員会議の内容を報告しろ」「君が代を実施しないのなら辞表を持って来い。来ないのなら降格処分となるで」「できなければ進退伺いを出してもらう」と攻勢をかける。自殺への引き金となったのは同僚校長の裏切りという。悲しいことだが、切り崩されて残ったのはひとりという孤独絶望がそうさせたのだろう。残された教頭にも、その葬儀の席上で強制を促したというから尋常ではない。そこまでして何がしたいのだろうか。第一そんな環境でいい教育ができるわけがない。なによりもいい子どもが育つわけがない。

国旗掲揚と国歌斉唱に反対することと、日の丸敬礼・君が代斉唱の強制に反対することとは違う。多くの人は強制すること、されることに賛意は示さないだろう。しかし現況はそこも許さないといって、襲いかかって来ている。戦後解放された教育体制は、その後一貫して反動側に取り戻されてきた。石川達三の「人間の壁」は佐賀県を舞台にした勤評闘争に巻き込まれる教師夫婦がテーマであった。夫の方が組合活動の中で、権力にからめとられていく。これも敗北に終わる。多分、教育基本法の改正が総仕上げになるのであろうか。

その流れからすると、教育現場ではますますすさまじい管理強化が進んでいくことになる。現状にしても、例えば気が遠くなるような書類作りがある。「週案」「月案」「学級経営案」「学級経営案作成記録」「指導要録」「調査書」などなど。いかにも外見のための、管理されるためのもの。自ら差し出して検閲してもらう卑屈を強要するものばかり。校長も教師が熱心に授業に取り組んでいるかどうかよりも、命令に従うかどうかで教師を判断せざるを得なくしている。

果たして、息子や娘たちが教師になりたいといい出したら、あなたはどうするだろう。また夢や希望にあふれて教職に就いた若者が、職場で押しつぶされていくのを手をこまねいていていいものであろうか。

かすかな光明として、自分らで学校を作っていこうとする試みのあることだ。国家に教育を任しておくわけにはいかない。

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