夫が旅先で急死した。通夜も葬儀も終えて3日過ぎ、客足も絶え、森閑とした家でぼんやり座っていたら、玄関のブザーがなり、黒服を着た母娘が立っていた。「まことに厚かましくて申しあげ難いのですが、お骨を拝ませていただけませんでしょうか」「あなたどなた?」「ご主人にずっとお世話になっておりました。この子はご主人さんとの間に出来た娘です」・・・その時だった。女は私に背を向けて、自分が拾った骨の一片を硝子の器からつまみあげ、目にもとまらないほどのす速さで自分の口の中に投げこんでしまった。女は夫の骨をわたしの目の前で食べている。目を閉じ顎をあげ骨を味わっている。わたしはふたりの媾合の現場を目撃したかのように衝撃を受け、躯が震えてきた。「お帰りください」自分でもびっくりするような冷たい声が出た。
金沢に泉鏡花文学賞がある。年度内に出版された単行本で、ロマンの薫り高いというのが条件で、五木寛之が中心となって審査している。今年が第39回で、どういうわけか、瀬戸内寂聴が選ばれた。どういうわけかというのは、1回から5回までは瀬戸内が審査員を務めていたからで、今更という感じがしたからだ。ところが、今更という駄作ではなかった。11月19日ふらりとはいった清明堂で、ぽつんと1冊だけが平台に放り出されていた。社長が自らレジに立っており、手ぶらであいさつというのもどうかと思ったこともあり、これも縁だと求めることにした。
「風景」(角川学芸出版 1600円)。受賞作だが、自伝に題材を取った短編集で、88歳の手馴れた筆を縦横に逸脱させている。「これだけ歳をとれば小説は何とか書けるもんです」との受賞あいさつだが、男遍歴で磨いてきた瀬戸内文学の真髄をみせてもらった思いだ。冒頭に引用したのが「骨」の一節。わしづかみにして引きずり込んでいく。もっと詮索したくなって、齋藤愼爾の「寂聴伝 良夜玲瓏」(新潮文庫)を取り出して、瀬戸内晴美および寂聴の生涯をなぞってみた。
大正11年生まれの89歳。徳島高等女学校、東京女子大学での読書がやはり基礎となっている。見合いのような結婚をし、夫の留学にすぐ帯同する形で北京へ。敗戦で徳島へ帰った時に、夫の教え子・小川文明が出現する。その彼を追うように京都へ出奔するのだが、坂口安吾に傾倒する彼が作家の道へ誘ったのは間違いない。夫や娘を捨てた晴美の蛮勇に恐れをなしたか、足は遠のいてしまう。
次に出現するのが、作家・小田仁二郎。丹羽文雄が主宰する同人誌「文学者」で出会っている。この小田には湘南に家族があり、荻窪にある晴美の下宿に通う形での半同棲生活が8年間続くことになる。お互いに愛や永遠や同棲を誓ったりはしない。何ひとつ契約もしなかった。出口がわからず渦巻いていた文学への願望が、小田によって出口が教えられ、道筋が指し示された。しかし事業に失敗した失意の小川文明が上京し、小田との微妙な危うい関係をも続けるのだ。それはまた「夏の終わり」という素材となってしまう。「私にとって小田仁二郎が欠けても小川文明が欠けても、女作者瀬戸内晴美は生まれなかっただろう」といい切る。
そして井上光晴との出会いだ。書店主催の講演会に大江健三郎も加わって、3人が選ばれた。晴美の鋭い観察眼がすぐに機能する。飴をつまむ男の白い指の繊細な優雅さ。大学の講師や助教授といわれても不都合のない着こなし、全身から石鹸の匂いが漂ってくるような清潔感。もちろん井上には妻とふたりの子供もいるが、関係は8年も続く。この関係を断ち切るための出家だった。戒師を引き受けてくれた今東光の「下半身は?」の問いに「断ちます」と答えたのが51歳。晴美から寂聴となり、旺盛な執筆意欲はいまに続く。
「風景」
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