安岡章太郎の最期の本だ。といっても晩年の7~8年は筆を執っておらず、今年の1月に92歳で亡くなったのだが、新潮社の担当が何とかしますと、単行本に入っていないものとかを集めて1冊にまとめた。文士の余禄といっていいかもしれないが、「あとがきに代えて」をしたためた娘の安岡治子が選手交代とばかりに登場するきっかけになるかもしれない。ロシア文学者でもあるが、父を観る眼が何ともいい。こんなエピソードを綴っている。
87年に甲状腺の手術をした。手術は簡単に終わり、一時出なかった声も2ヶ月で普通に話せるようになった。それでも甲状腺ホルモン剤を一生飲み続けなければならず、半年に一度は病院でチェックを受けなければならない。術後20年を越えた頃に、もう面倒だからと担当医師に文句をいうと、分厚いカルテを見ながら、意外なことをいった。「でも、あなたは悪性腫瘍でしたからね」。娘にがんを伝えなかった父・章太郎の思いを短編「黄葉から青葉へ」の中で見つけ出す。あの風貌に秘めた深い優しさ、この作家の真骨頂でもある。
第三の新人と呼ばれた遠藤周作、吉行淳之介、島尾敏夫らの交友は羨ましい限りである。反面、その親友たちに先立たれた寂寥感は深く痛々しい。ここでは吉行淳之介の事などと副題にあるが、遠藤とのそれが面白い。
遠藤周作が代父となって、カソリックの洗礼を受けたのは68歳の時で、夫人と娘・治子も同時に行ったのだが、記念写真では生真面目な表情の遠藤が安岡の肩を抑えている。「逃れぬ証拠、いまさらジタバタするでない、神妙にいたせ」とばかりに老いたる泥棒が召し取られ、お白州でお奉行さまの前で頭を下げているようだ。受洗の動機は、少し前の胆石と心臓病を患い死に損なったということもあるが、もっと心の奥底に深い不安を抱いたからに違いない、と他人事のように語っている。これまで「オイ、遠藤」と呼び捨てにしていたのが、「オイ」という声音が微妙に違ってきたとも。圧巻は吉行が亡くなった時、真っ先に電話をかけてくれた遠藤が「吉行が死んだ、たったいま・・・」、そこまでいうと堪らず、嗚咽の声となった。
島尾敏雄を吉行と一緒に市川にある精神病院を見舞った時のこと。島尾が夫人に付き添ってそのまま自分も入院してしまったのである。どうしたら島尾の気分を少しでも安らげることができるかだが、もうひたすら島尾の話を聞いて深く頷きあうしかないという状態で、それでも時間が過ぎてゆき、バス停まで見送りに来た島尾が必死に手を振るのを、鬼界ヶ島に俊寛を残していく気分にならざるを得なかったという。そして、特攻隊長の生き残りで、妻ミホを精神的に追い込む罪を犯した島尾をこう評価している。「彼は才能なんていうものの作家じゃない。もっと運命的なもので作家になっている。ある文学、ある小説を書くように運命づけられている作家だと思う」。つまり「死の棘」を書くために生まれてきた、と。
「年をとるというのは、要するに自分のまわりに知り合いも友人も、誰もいなくなるということだ」。わが友みな世を去りて、とフォスターのオールド・ブラック・ジョー を思い出す。そんな寂寥を生きねばならないということだ。
さて、富山の清明堂書店がついに店を閉じることになった。その閉店セールの100円均一の書棚にわが拙著「ゆずりは通信」を見つけてしまった。一瞬複雑な思いもしたが、自ら買うことにした。自ら始末をつけてやりたい、そんな気持ちがしたのである。もちろん、買うかどうか悩んでいた岩波の10数冊も、冥福を祈るようにこの際とばかりに購入した。わが青春がまたひとつ消えてしまった。
「文士の友情」
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