性と暴力。人間の本質といいながら、闇に隠すようにしてきたのだが、それを文学というのは「ほら、見てみろ!」と突きつけるところがある。田中慎弥の芥川賞受賞作品「共喰い」がそうだ。17歳の篠崎遠馬が父親にそれを見る。母親に対して、娼婦や継母に対して、その父の血が自分にも流れており、ある時無意識に恋人に手をかけている自分に恐れおののく。同じ娼婦と交わり、父と同じことをしでかして確認する。自分の恋人を手篭めにした父を母が刺し殺すという顛末だが、読後感がいまひとつという感じだった。
そんなところに、光母子殺害事件の最高裁判決ニュースが飛び込んできた。事件の真相報道がおびただしく流れるのを見て、そういえば田中も同じ山口県ではないか。「共喰い」はこの事件を手がかりにしているのではないかと思えてきた。「事実は小説より奇なり」だが、いささか色褪せてきたように思える。作家も多くの試練を乗り越えなければならない。
さて、文士稼業の一端を見せてもらったので、われ文士なりせば、と想像してみた。一日に原稿用紙3枚書くことを自らに課す。「一日に3枚以上書いたら、筆が荒れちゃってダメだ」。内向の世代と呼ばれる作家達の間では常識なので、やむを得ない。というわけで3枚、1200字となるが、用具は鉛筆ということになる。しかし、ここは使い慣れた丸善製の太字万年筆とする。ペンを握るということに大きな意味があり、決してキーを叩いてはならない。キーを叩くということは、パソコンが示してくれる言語から選んでいるに過ぎない。自分の言葉ではないだろう、それでは文士の風上にもおけない。そしてできれば、鳩居堂製の名前入りの原稿用紙にし、奥まった和室書斎で、文机に正座といきたい。これで格好だけは整うことになるのだが、問題はこれからである。地獄のような苦しみが待っていることは間違いない。
わが憧れとする内向の世代に作家・黒井千次がいる。その黒井が田中慎弥と芥川賞受賞記念対談として文学界3月号は特集していた。ほとんど買ったことがなく、買うのは50年振りといっていい。黒井は80歳だが、芥川賞候補に5回なりながら取ってはいない。田中は40歳にして、5回目でようやく手に入れたのである。もちろん2人とも鉛筆書きだが、書き上げた原稿用紙をトントンとそろえて紙の重さを手に感じたい究極のアナログ派だ。また最初から原稿用紙に書くのが怖いので、ファックスの裏紙とか、カレンダーの裏に書き、原稿用紙に清書することが多い。遠藤周作や中上健次もそうだという。田中が工業高校卒のコンプレックスを素直に黒井に打ち明けている。漱石も読んでいないし、読むことにしても、書くことにしてもスタンダートにやっていないし、というのを、小説を書くのに学校教育は特に必要ないでしょうと黒井がさえぎる。感じのいい対談である。
月刊文藝春秋3月号の石原慎太郎の選評も紹介しておこう。戦後間もなく場末の盛り場で流行った「お化け屋敷」のショーのように次から次安手でえげつない出し物が続く作品で、読み物としては一番読みやすかったが。田中氏の資質は長編にまとめた方が重みが増すと思われる。とあるが、田中が授賞式で石原に突っかかるように話していたが、それなりに評価もしているのである。
そしてその田中慎弥だが、石原のエール部分に応えたわけでもないが、長編小説「燃える家」に挑んでいる。1000枚というから、1日3枚で1
文士稼業
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