鬱々とした日々だ。雪崩を打って国のカタチが醜く壊れていく。作家の徐京植(ソ・キョンシク)が月刊みすずで指摘する。「日本というのは奇妙な国だと思う。ホロコーストやナチズム研究について、これほど充実した書物が、これほど大量に出版されている国は他にないのではないか。それにもかかわらず、首相から地方都市首長に至るまで、典型的なほど歴史修正主義的ないし否定論的な言説が溢れ返り、そのことに国民大多数が無関心であるか、あるいは賛意を隠そうともしていない。研究水準と教育および社会的実践が見事なまでに乖離している。このような現象は憂鬱を通り越して、もはや不吉というほかない」。その通りだが、このまま第三の敗戦へと進むのを座視するわけにはいかない。第三というのは、昭和20年8月の敗戦、続く第二は本来なら昭和60年のプラザ合意による対米マネー戦争の敗北を指すが、老人は敢えて平成23年3月11日を船橋洋一のいう原発による敗戦とする。三度も同じような愚を犯すのかという意である。
蒙を啓くとはこのこと、東アジア共同体をいま一度見直す好著に出会った。岩波新書「アジア力の世紀―どう生き抜くのか」。進藤榮一・筑波大学名誉教授は、対米従属を見直し、中国脅威論を言い立てる愚を論破し、TPPの罠に陥ることなく、アジア経済のダイナミズムに乗ってアジア地域統合を目指すことが、第三の敗戦を超える日本の道だと力説する。
日本の稚拙極まるガラパコス外交でもって、世界を、アジアを説得できるとは誰も思っていない。見たくない現実が現れるのが怖くて、アベクンにだまし続けてほしいと願っているだけではないか。河野談話に関する国会審議を聞いていると、まるで戦前に戻ったのではないかとさえ思えてくる。「強制性を示す紙の証拠がないからといって戦後半世紀を超えて今も苦しむ女性の存在や戦争中の悲劇までがなかったといわんばかりの主張には、悲しみさえ覚えます」という河野の話はもっともだ。こんな外交的な対応では際限がない。次に中国から出されたのが中国人労働者強制連行の損害賠償訴訟カードだが、これも前に進むことができない対応となる。領土、靖国参拝、集団的自衛権でこのまま突き進めば、経済的にいえば中国の市場を失い、「アジア力の世紀」の果実を取り損ねて、歴史の敗者として、新しい歴史から退場を迫られるのは必至である。
進藤はいう。カイロ宣言、ポツダム宣言に立ち返り、戦後日本の形を決めた国際公約をいま一度認め、その上で日本側から領土棚上げ論を持ち出すべきだとする。アベクンの面子などこの国益のためなら、どれほどのものではない。
そして、EUにならえという。ひとつは独仏が欧州石炭鉄鋼共同体からスタートしているのだから、日中韓で東シナ海資源共同開発構想を具体化し、その端緒をつかむべきだということ。ふたつは戦後間もなくブリュージュでスタートさせた欧州大学院大学だ。「欧州人」を創り出そうという試みが実を結び、ここを出た学生の多くがEU本部に勤務し、小さな国益を超えた発想で仕事をしている。これにならって東アジア大学院大学を設立し、日中韓にサテライトをおいて「東アジア人」を創り出していく大胆な構想を描くべきだとしている。
その基盤になるのが、アジア経済が一体化して進んでいる事実である。生産様式のモジュール化がそれに拍車をかけている。モジュール化とは複雑な部品を、より小さな単位(モジュール)に分解し、その各単位を組み合わせて生産や経営の効率化を図る生産経営方式だ。これに情報革命下でのネットワーク化が重なり、アジア共生の産業思想となっている。日本の存在は想像以上に落ち込んでいる。今こそ目覚めるべき時であると説く。
その日のためにやるべきことをやっておこう。EU統合の父ジャン・モネは「国と国とを同盟させるのではない。人と人とを結びつけるのである」と訴えかけた。仏教・儒教を基層とするアジア文化は深く底流で結びついている。ひょいと手の伸ばせる範囲で、友好の小さな物語を紡いでおくことである。老人のふるさとは新湊だが、祖国はアジアであり、世界だ。
「アジア力の世紀」
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