英語で啖呵を!岡倉天心

「英語で啖呵の切れる男 求む」そんな求人広告があった。確かソニーである。さすがと感心はしたものの、わが身の英語力はご存じ中学生以下、程遠いとため息を吐いたものだ。

ところが明治の初めにそんな男がいたのである。1904年というから明治37年。羽織袴姿でボストンの街を闊歩する日本人に、ひとりの若者は声を掛けた。

「What sort of'nese are you people? Are you Chinese,or Japanese,or Javanese?」(「おまえたちは何ニーズだ?チャイニーズか、ジャパニーズか、ジャヴァニーズ(ジャワ人)か」)

もちろん東洋人に対する偏見に満ちた侮蔑的な台詞。これに対して慌てず騒がず、くるりと向き直り、この若者を見据えてこう切り返した。

「We are Japanese gentlemen.But what kind of 'key are you? Are you a Yankee,or a donkey,or a monkey?(「我々は日本人紳士だよ。ところで、あんたこそ何キーなんだい?ヤンキーか、ドンキーか、それともモンキーか」)

胸のすく啖呵とはこのこと。この男こそ誰あろう、岡倉天心。いうまでもなく天心は、フェノロサとの交友、東京美術学校長、そこを追われて日本美術院を設立、ボストンに遊学、その美術館東洋部顧問に就任、インドではあの詩人タゴールと親しむなどなど、明治の日本美術界に燦然と光り輝く巨星である。この時ボストンを連れ立って歩いていたのが横山大観、菱田春草、下村観山という凄いメンバー。意気軒昂の天心さんなのだ。この渡米で「日本の目覚め」をニューヨークで出版している。これに加えて英語で出版した「東洋の理想」「茶の本」などは、いまだに日本研究を志す外国人の必読書だ。

それではどのようにしてその英語力が身に付いていったのか。彼は1862(文久2)年の生まれ。生家は横浜の貿易商。なるほど英語を受け入れやすい環境だ。事実6~7歳で英語を始めている。とりわけ耳がよく、9歳にして英米人に引けは取らぬ会話力を身に付けていたという。しかし、父親はある時、路上の表示杭にある漢字を読めない天心を知った。この父子はこれを深く恥じたという。それでお寺に寄宿させて、そこの住職である玄導和尚に漢学の手ほどき受けさせた。この漢学修養こそ彼の英語習得力のポイント。言葉に対する感受性は、やはり母国語での文化歴史に通じてこそ養われるもの。語学は所詮手段。何を語るか、書き記すか、が事の本質。「太平洋の橋たらん」とした新渡戸稲造も、禅の鈴木大拙も、明治の英語の使い手は然りである。でもこの二人は明治の時代での国際結婚派、余計なことだが。

英語の習得力は次の4段階といわれる。?伝えたいことがうまく伝わらない段階?伝えたいことの大要が何とか伝わる段階?伝えたいことが正確に伝わり?なおかつ洒落や皮肉が操れる段階。

さて、なぜ英語にこだわるのか、と問われれば、かく思うからである。9.11テロ以来のめまぐるしい国際政治の動きの中で、日本の政治家は、やはり日本憲法を、その9条を、広島長崎の被爆体験を英語で語りかけるべきだと思う。ブッシュやブレアに第4レベルの英語力でやりあい、時には啖呵も切ってほしい。金大中、江沢民とは、戦争責任についても、靖国問題についても、静かに英語で余人を交えず語りあえば、随分と日本の見方も変わってくると思う。あたふたとした自衛隊の海外派遣よりその方がずっと有効だ。そう思いませんか。

そうした意味では、英語第二公用語論に賛成である。英語の勉強、学習方法ももっと現実的なものにしなければならないのはもちろんである。

われらの同級生にも天才がいた。近藤和彦君。高校2年の時にAFSでアメリカへ。帰国して本来ならばあと1年高校生をやらなくてはならないが、われらと同じくその年に東大に合格している。専攻したのは生物学。大学院に残り、留学もし、研究に没頭していた。恐らく利根川進に続くノーベル賞を狙える逸材でもあったと確信している。彼は英語力も抜群であった。しかし残念ながら、30歳過ぎで夭折している。天は本当に残酷なことをする。でも彼の一粒種が、やはり東大で生物を専攻したと聞き、救いはあるものだとほっとした思いをしている。

さあ明朝は6時起床だ。基礎英語に挑戦するぞ!

【参考図書】
「英語達人列伝」   中公新書
「あえて英語公用語論」文春新書

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