アドルフの画集

1918年のミュンヘン。歴史に「もし」はあり得ないのは承知だが、何とも不運な偶然がある。貧相で気弱な青年はレストランで画商マックスを待っていた。傍らの画集を見せ、個展を企画してもらい、世に出るためである。しかし、閉店まで数時間待ってみたがマックスは現れなかった。若者は怒りと失望からようやくのことで席を立ち、帰途に就いた。自分との約束をふいにしたと思い込み、踏みにじられた思いで蒼白になっていた。その時ユダヤ人であるマックスは途中で暴漢に殴られ、足蹴にされ、そこには行き着けなかった。
 青年30歳の時。それまでに美大入学に失敗し、絵葉書を描き糊口を凌いでいた。やがて第一次大戦が始まると、ドイツ帝国陸軍に志願し、伝令兵という危険度の高い任務についている。敗戦となり、ドイツは過酷な賠償と領土の割譲を課すベルサイユ条約に調印する。この青年が激しく、この弱腰を批判する演説を行っている。生活に追われる毎日で、軍に籍をもらい、アルバイトで壇上に立ったのだ。その時のユダヤ人排斥が聴衆に受け、いい知れぬ陶酔が忘れられない感覚となった。
 この青年が15年後にドイツの首相になり、20年後には世界を戦争に巻き込んでいく。しかしこの時点で周りの人は、社会に溶け込むことのできないイカレた青年だと思っていたのである。
 このイカレた青年こそアドルフ・ヒットラー。映画「アドルフの画集」は2002年、難産の末に生まれた。無意味ではないかという声だ。マックスがそこに現れても、そうなったであろうと自身で語るメノ・メイエス監督。「反ユダヤ思想で演説することで、熱狂的な支持を得て、これで自分もやっていけることを見出した。ナチズム自体がひとつのアート。負の妄想でしか作り得ない、夢に破れし者しか作り得ない、物凄い負のアートなんです」。それではなぜ、こうした歴史の「もし」を製作したのか。そうであったにしても、こんな問いかけをしたかったのである。アドルフを生み育てた土壌はまだ過去ものにはなっていない。現にアドルフなるものは出現しているのではないか。映画はそう訴えている。久しぶりの金沢シネモンドであった。相変わらず最終日の6月4日に滑り込んだ。
 10年前に「日本―EUフォーラム」なるものを手がけた。富山の中でのEUを探していて、富山国際大学の山下公子助教授に巡り会った。彼女の著書に「ヒトラー暗殺計画と抵抗運動」(講談社選書メチエ)がある。ドイツの人々は、このオーストリア生まれの男になす術なく堕ちて行かざるを得なかったわけではない。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を挙げている。いま一歩だったのである。その時の米英の反応は極めて冷ややかであったという。独裁者は独裁者を求める人たちによってそうなるのだ。誰しもどこで食い止めるのか、どんな手段があるのか、それを突き止めたいと思っている。寿司屋でそんな話をしたのを思い出した。山下助教授は実は、村上陽一郎国際基督大学院教授の奥さんであった。その時はつゆ知らなかった。彼女は現在、早稲田大学人間科学部教授に転じている。
 あなたたち大人は、若い世代を本当に育てようとしているのか。そう突きつけられると、答えに窮してしまう。
 独裁者の単独犯はありえない、彼の存在を求める多くの人間が背後にいるのである。つまらぬ保身、打算からつい、とういうことであれば、三菱自動車を挙げるまでもなく、いたるところにある。あなたも、わたしも罪は免れ得ないことになる。
 はてさて、人間の心の中の暗き闇の部分を、どう制御していくか。負のアートに勝る正のアートということになるのだが、あなたはそんなアートを持っているか、だ。
 余談であるが、ヒットラーの絵は、彼が頂点に達した時、1万マルクまで跳ね上がっている。

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