「教育亡国」

虫唾が走るとはこのこと。安倍自民党総裁であるが、また教育亡国への道をひた走っている。前回の教育基本法の改正に続き、性懲りもなく教育改革ビジョンをまとめるという。いじめ問題への対応や教育委員会制度の見直しなどを柱に据え、次期衆院選の公約の目玉にするというのだ。教科書検定・採択制度の見直しも加えて、祖父・岸信介の満鉄時代を懐かしむように戦前回帰を狙う。政権奪取間近かの高揚感がいわしめていることは間違いない。性急な民主党批判の揺り戻しで、こんなことが罷り通るとすればたまったものではない。教育現場の悲鳴が断末魔の声に変わることだけは、何としても避けなければならない。
 広島の中国新聞にこんな投稿が掲載された。教育現場からの切実な声である。いじめ対策にスクールカウンセラーを1000人規模で増員するというがとても有効とは思えない。教職員が子どもと関わる時間を増やし、何よりも子どもが第一に考えられるゆとりを作り出してほしい。それにはまず全国学力テストの廃止、教員免許更新制の廃止、全学年30人学級の実施、研究会や報告文書などを精選し、不必要なことを教職員にさせない、と訴えている。その通りである。
 教育を考える時、いつも亡き宮城教育大学学長であった林竹二を思う。69年同大学の学長に就任したのだが、大学紛争の渦中で、終始学生の側に立つ姿勢を貫き、封鎖中の構内に入り込んで学生と対話の労を惜しまなかった。何よりも斉藤喜博と並んで、その授業実践である。定時制湊川高校、同じく定時制の南葛飾高校での授業だが、小中学校で徹底的に切り捨てられた生徒が、この生徒達を守り抜こうとする少数の先生に見守られて、食い入るように林竹二のソクラテス、プラトンの授業についていく。捨て子同様の子ども達が授業に深く入って、文字通り、浄められ美しくなっていく。深い内容を持った授業は、子供の深いところに届く。学んだことの証は変わることだというが、その通り変わっていく。選別のみの学力テスト授業では子どもは変わらない。こどもを生産の手段と見るのは止めよ。かけがえのない生命の主体としてこれを畏れよ。そこからしか、教育のよみがえりはない。黄泉の国にいる林の悲痛な声でもある。
 戦後の改革で、教育は国家の独占から解放されて、国民に手渡された。しかしこれは占領当局による立法作業を通じての字面改革にとどまり、教師父兄の主体的なものとはならなかった。朝鮮戦争を機にした占領政策の変更は、占領期では面従腹背に徹した文部官僚の手によって、あっという間に教育は国家に取り戻されてしまった。この延長線上で最後のトドメを刺そうというのが、いじめを契機とした動きとなっている。
 いじめ、自殺はこの歴史的な経過を踏まえ、本質的なところに立って考えないとなくならない。林竹二の83年刊「教育亡国」(筑摩書房)にいま一度目を通したい。現場の声に耳を澄まし、何よりも生命の主体である子どもを、人間を畏れることだ。薄っぺらな秩序と服従のみを強制する一部勢力に冒涜されてはならない。
 さて、なだいなだ老人党党首は最近元気を取り戻した。こんなことを叫んでいる。日本の防衛大臣が、アメリカの使いばしりになっているのは一目瞭然だ。日本から大臣の給料を出すのは無駄。初めから説得などできないのに、沖縄に説得に赴くのは、旅費の無駄。公費を使う価値がない。これ常識。戦後大臣を「公僕」と呼ぶことが流行った。今は「アメ僕」。アメリカの強引な政策に、無理に協力するために税金を使って右往左往しているだけ、という具合だ。
 とにかく、現状より悪くなる選択肢しかない総選挙だけはやめてほしい。

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