「日本と世界はこれから長いトンネルに入っていく。そして、そのトンネルを抜けたとき、のどかでうららかな世界ではなく、これまで見たことのない荒涼たる世界が広がっているのではないか」。いまは作家活動が中心だが、かって西武百貨店を率いていた辻井喬が今年の信州岩波講座で述べている。彼の予見は当たるだろう。リーマンショックで転げ落ち起き上がれない米国、ギリシャの財政破綻から低迷するEU、苦渋の対処で「底を打ったか」に見える頃に、また次なる危機が出現する。そんな暗闇のトンネルの中で、国家も個人も戦々恐々である。何も信じられず、右往左往した挙げ句に、辿り着いたのが自国だけ、自分だけという新しい帝国主義、個人主義というわけである。
尖閣列島での衝突事件もこの図式に当て嵌まる。内なる矛盾を、ナショナリズムを煽り立てて、目を外に向けさせる。何度も見たような政治手法がまたまた繰り返されている。
何度も同じ手で騙されていいのか、と叫びたくなるが、流れを変えるのは厳しいように思える。しかし、さりながら、手を拱(こまね)いているわけにはいくまい。多少見苦しくなっているが背中の彫りもの唐獅子牡丹が泣いている。止めてくれるな!認知症のおっかさん。というわけで、またしても愚論を展開する。
先日、27歳になる3男の同級生がやってきた。有力地銀に入行して4年目で、今秋に結婚する。驚いたのは、同期入行で2割が退職しているとの話だ。銀行の息の詰まるような労働環境にあるのだろうといったら、そうではなく公務員に転じているという。「何、今時結婚もできる好労働条件なのに、まだ不安なのか」と絶句してしまった。これほどまでの不安が若者を蝕んでいるということだ。多少は名の知れた大学を卒業し、有力地銀に選ばれた若者が、ひたすら貧困を免れたいという思考停止回路。寒々としてくる。貧困を免れたいという「哲学の貧困」というほかない。まるで、人間が賃労働にかしずいている。辻井喬が予見した風景が既に広がっている。
首相の菅が雇用、雇用と叫ぶが、こんな現実、若者の心情が見えているのだろうか。雇用の奥にある仕事の中身である。安定にしがみつく労働に、働く喜び、働く醍醐味があるだろうか。そこを突き抜ける哲学としての労働観を語らなければ、全く説得力がない。それとも「流れる汗に未来を込めて、明るい社会をつくること」なんていうのは、まったく空言になってしまったのだろうか。
「希望は戦争」と書いたフリーライターの赤木智弘はこんな主張をしている。資本主義の成熟した日本では、賃労働は完全に枯渇しているという前提だ。したがって、残り少ない賃労働を奪い合い、既に奪い取った賃労働は一部の人間にとって利権化している。私達は決して賃労働のために生きているのではない。賃労働は生活の一部であるが、賃労働が生活を覆い尽くしてはならないし、私達は賃労働にその人間性を支配されるべきではない。そうした労働概念を破棄し、人間同士が触れ合うコミュニケーションにこそ重きを置かなければ、いつまでたっても賃労働という資源の浪費と、資源の独占による差別は続くだろう。賃労働にありつけないことに脅えて暮すのは、もうまっぴらごめんだ、という。
この悲痛な声の先にあるのが「戦争が起きて多くの人が死ねば、社会は大きく変化するしかなくなる。そこにしか閉塞を打ち破る希望がないのではないか」の言である。老人にいわせれば、需要不足の手っ取り早い解決策といえば戦争である。そして、マルクスの予言は全く正しいとなる。
はてさて、ここまで絶望となると、政府がベーシックインカムという形で雇用を保証したらどうか。失業者を生まない責任は政府にあると宣言し、その上で戦争しかないという若者と真剣に対峙するしかない。菅及びわが世代同士よ、あとひと勝負ぜよ!
参照/「世界」10月号。「ひとりから」第47号。
絶望を突き抜けて
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