予備校講師の面白さを語る男と出会った。GWの休講を利用して、コロナ禍も構わず、はるばる佐賀から関東経由で富山にやってきた。好奇心の赴くまま、じっとしておれない性分なのだろう。前日は金沢泊まりで、富山駅改札口での開口一番が、金沢―富山間新幹線の割高さへの怒り。学生運動で就職がままならず、たまたま予備校の歴史講師という職にありついた。70歳だが、まだまだ意欲十分だ、
河合塾の試験は模擬授業をやっての選別だった。アジ演説で鍛えた弁舌が功を奏したのだろう。代ゼミ、駿台予備校の東京勢に抗して、名古屋から三大予備校の一角を占めた河合塾が積極採用に踏み切った恩恵といってもいい。ピークの時で1コマ(90分授業)3万円が相場だった。つまり1日2コマこなすと6万円、月収100万円を超えることが多く、気ままな生活を謳歌できた。しかし授業の手をゆるめることは許されない。生徒の授業評価が来期契約の決め手になるシステム。準備怠りなく、面白がらせて、教えなければならない。また、受験の狭さだけでは自分に満足できない。さりげなく「大人になるためのリベラルアーツ」の一端を織り交ぜ、如何に生きるかという哲学や近現代史を織り交ぜる。たかが予備校講師といわせない、そんな矜持が支えている。
そこで思い出したのが、河合ブックレット。河合文化教育研究所を設立し、出版も行っている。書棚から出してきたのが「学問に何ができるか」。1987年発行の定価400円。著者は花崎皋平(こうへい)で、河合塾の生徒に講演したものをまとめている。大学闘争で北海道大学助教授職を辞し、哲学書の翻訳で糊口をしのぎ、在野での新境地を切り開いた。わが尊敬している人物のひとり。
ここで気付くのだが、講師もそうだが、予備校にも、根底には正統なアカデミズムに対するコンプレックスがあるようだ。駿台予備校が1987年に開学した駿河台大学は、その最たるものかもしれない。予備校生が目指している大学なるものはそれほど素晴らしいものではないのに、その予備校生をメシの種にしている後ろめたさといえばいいのかもしれない。
その大学の虚妄を花崎が紛争で突きつけられた。学者の利己主義の数々。研究できさえすればいい、本さえ買えればいい、自分の時間さえあればいい、いつも何かの陰の隠れ、権力の陰に隠れてしまう。まったく学生の前で無力で卑怯な存在でしかなかった。花崎はその特権を捨て去った。それだからこその説得力を持つ。
人生のこの時期に学ぶべきものは受験スキルではない。もっと大切なものがある。花崎皋平は足尾鉱毒に挑んだ田中正造の言葉「進歩は芋を洗うがごとし」を挙げている。自分が何者であるのか、何をしたいのか、社会との関係は、そんな問題意識を、芋を樽の中で洗うように繰り返し、繰り返し行うことでしか、答えは見いだせない。
そして、学ぶとはどういうことか。予備校の危機も教室の大幅閉鎖など想像以上である。それは大学の危機と裏腹の関係にある。予備校を全寮制のリベラルアーツの2年制単科カレッジにしたらどうだろうか。それから2~4年制の大学専門課程に進む。駿台予備校で物理学講師を務めた山本義隆・元東大全共闘議長はそのままカレッジ教授であろう。コロナは、漫然とした生き残りを許さない。