なりわい。ひとと会う時に別に値踏みするのではないが、このひとはどのように収入を得て生活しているのか、と想像する。生活のため、生きるために、誰もが正業(なりわい)なるものを持っていないと生きていけない。やむを得ず、仕方なくという消極的なイメージが付きまとう。一方、「世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事を持つことです」と福沢諭吉がいう仕事がある。名刺を出されて大学教授とあると、素晴らしい仕事をなさっているのですね、となり、それが東京大学理学部教授とあると更にリスペクトが上がるというのが普通である。彼の場合は予備校講師を「なりわい」として選んだといえるのだろうか。間違いなくいえるのは、仕事として東京大学理学部教授のポストを拒否したということだ。
彼というのは元東大全共闘代表・山本義隆である。あの闘争から40年余を経て、初めて自分の思いを綴った。「私の1960年代」。週刊金曜日を発行する出版社から上梓したのだが、同社のベストセラーである「買ってはいけない食品」まではいかないが団塊の全共闘シンパの購入を計算して3万部という目算であろうか。「僕の本なんて、そんなに売れませんよ」と照れている山本の笑顔が浮かぶ。ついつい出版の窮状を察して下世話な勘繰りを入れるのは、悪い癖だが申し訳ない。
1969年1月18、19日の両日は安田講堂の攻防戦だったが、山本は17日深夜に今後の闘争継続を考え、日大のバリケードに移った。直後に逮捕状が出て、9月5日日比谷公園で逮捕された。すぐに取り調べが始まるわけではなく、マスコミ各社がそろったのを見計らって、腰縄で廊下を歩くところを撮影させる、いわば「市中引き回し」を警察は演出した。起訴までの1か月は留置場で、本を読むことさえ許されなかった。起訴後、巣鴨拘置所に移され、物理学の本をむさぼり読んで過ごした。彼の集中力は凄い。70年10月末に保釈になったが、再度逮捕されて、その時は3ヶ月で今度は哲学書に挑戦した。その後、生活にも困っていたので知人のやっているソフトウエア関連の従業員10名に満たない会社に拾われて、富士通の下請け作業をしていたのだが、ある時名前がばれてしまった。富士通は仕事を打ち切り、公安の刑事は大家に過激派が爆弾を作っているというデマをささやいて、辞めざるを得なくなった。その後やはり知人の紹介で駿台予備校に勤めることになったが、已むを得ぬ「なりわい」の選択だった。すぐに人気の看板講師となったのはいうまでもない。
東大全共闘は「東京帝国大学解体」が目的で、産業・軍事に貢献する研究を批判することを超えて、研究者の存在である自分への自己否定につなげるものだった。同じ闘争の中で出会った哲学者の廣松渉から、評論家のようなものになるなという忠告を、まともに学問をやれと理解して、独学で『磁力と重力の発見』(3巻、大佛次郎賞、毎日出版文化賞)、『一六世紀文化革命』(2巻)、『世界の見方の転換』(3巻)をまとめあげたのはご存じの通りだ。
丸山眞男批判も鋭い。折原浩にいわせているのだが、かって「無責任の体系」を鋭利に分析され、「不作為の行為」について語られた、私の最も尊敬する教授がここにいたってなお沈黙を守っておられることは、東京大学の退廃を悲痛に象徴している、と切って捨てた。
はてさて、東大の居心地の良さの中で、東大教授なる仕事は「なりわい」になりさがり、原発関連から防衛省までの研究費を、無自覚を装って使っているのだろうか。原発を推進してきた東大原子力工学科の罪は極めて重い。山本は身銭を切って、5000点の及ぶ東大闘争資料集のデータベースをゼロックスコピー製本28巻、マイクロフイルム3本にまとめ、国会図書館と大原社会問題研究所に収めていることを付け加えておきたい。
「私の1960年代」
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